『へばの』の上映と木村文洋氏への手紙



 以下の映画上映があります。

 へばの・2011・3年目の上映


 ■東京・渋谷 『へばの』英語字幕版上映+USTREAM 同時配信  2011年5月15日(日)
 ◎モーニングショー
 【開場】 10時30分 【開映】 11時00分〜 【座談会】 12時45分〜【会場】 光塾 COMMON CONTACT  ※上映終了後に休憩をはさみ、その場で、参加を希望される方々と、監督・スタッフにより座談会を一時間程度行いたいと思います。参加は無料です。
 ◎レイトショー【開場】 20時50分 【開映】 21時10分〜【会場】 オーディトリウム渋谷
 ※各回共、映画上映と同時にUSTREAM 配信を行います。 www.ustream.tv/channel/hebano-goodbye


 ■大阪 4月30日(日)〜5月13日(金)の中で、計5回
 緊急上映 福島第一レベル7の現在から【原発映画特集】シアター7


 ■山梨 6月9日(木)〜6月12日(日)計7回 シアターホトリ にて



 今回の試みを後方支援(?)するために、二〇一一年一月三〇日に木村文洋監督に送った私信を以下に転載します(木村氏本人の許可を得ました。また加筆修正しました)。
 3月11日の震災・原発事故の後に明らかになったのは、首都圏や相対的安全圏の「我々」の生活や精神が基本的に「変わらない」という無痛と不感症でした。震災前に、六ヶ所村の再処理工場を舞台に『へばの』を撮った木村氏の次回作への期待とハードルも、著しく上がったに違いありません。僕の考えでは、木村氏の最大の魅力は、自分と他者の弱さを同時に問いうるという繊細な共感(mitleiden、共苦、憐み)の能力にあります。木村氏には、いつの日か、かつて青山真治『EUREKA』が切り開いた光景の「先」を見せてほしい。もちろんそこでは、映画を観る我々の側の人生も験されるでしょう。「映画を撮れば誰にでも撮れてしまう」という技術革新上の錯覚や粗製乱造を許す自主制作・上映の腐海から、どんな怪物的な映画が聖誕するのだろう。僕らは「芸術は現実に対し無力だ」「娯楽・サプリに過ぎない」というシニカルな消費者に居直ることに慣れきっている。しかしそれは、映画が世界を変えてきた、我々の視力や欲望を革新してきた、という歴史への畏れを欠くのではないか。すると、「筆と爆裂弾は紙一重」(二葉亭四迷)ならぬ「映画と放射能紙一重」であるような浄化的な作品を待ち望むとは、どういうことか。
 ともかく、ぜひ、『へばの』をご覧下さい。

 木村文洋


 ●木村さん、年始は体調を崩されたようですが、お元気ですか。『へばの』の感想をお伝えするのが大変遅くなりました。
 この間、家庭の諸事情から殆ど何もできていなかったのですが、折にふれて木村さんのブログを拝見し、スピリチュアルムービーズ、チームユダ、中崎町ドキュメンタリースペースなどの進行形の映画運動の現況を遠目に見ながら(不勉強な自分はそれらの作品を殆ど未見ですが)、今なお続く自主制作/自主上映の血族のエネルギーを確かなものとして感じました。僕がそれらを無視できなかったのは、僕自身二〇代後半から「フリーターズフリー」で仲間との協同事業を試み、かつ、それらが今は深刻な暗礁に乗り上げているからでしょう。以前のメールで、僕には『へばの』に向き合う資格があるか分からない、と書きました。僕は映画を日々の糧として見続けている人種ではないし、ここ何年も、日々の生活・子育てやパート労働に埋没し、殆ど何も読まず、何も書けていない。何より、誰もが苦しむ生活の疲弊を押し切って、自らの「書くこと」と「協同事業」の暗礁を同時突破する何か=「明日の必要」(石川啄木)の手ごたえもなく、未だにふらふら・うねうねと彷徨い続けている。せめてそれが何かを難産の果てに産み落とす「ねちねちした進み方の必要」(中野重治)であればいいのだけれど、たんなるふらふら・うねうねした進み方から抜け出せません。
 にもかかわらず、一つの切迫した気持ちとして映画の感想をお伝えしたい、と今回思ったのは、木村さんの作品に、魂的に強く動かされたからでした。
 ●たとえば『へばの』の紀美の凄みは、有島武郎或る女』の葉子をどこか思わせました。葉子が自分を取り巻く複数の暴力との戦いを強いられていたように、紀美は(僕の眼に見えた限りでは)三つの戦いの同時進行を強いられている。
 (1)六ヶ所村に再処理施設を押し付け、それを健忘する首都圏の「日本人」たち。
 (2)幸福な「家族」の幻想をあくまでも善意から押し付けてくる父親や村人たちの、気遣いや優しさ。
 (3)放射能漏洩事故の被害者であることを理由に、紀美と向き合うことをひたすら回避する治の弱さ。
 腰をすえて「生活それ自体を持続的な戦いにすること」は、本当に困難です。誰もがそれぞれの生活の中で、複数の暴力に揉みくちゃにされ、「何」と闘っているのかわからないまま、体力や精神のみならず、人生の「志」をも削り取られていく。
 たとえば鎌田哲哉氏は、紀美の父の心臓病による死を「自殺」として「誤読」しますが(「誤読」は否定的な意味ではありません)、氏のもう一つの「誤読」は、女性たちに終始依存する治の心根の弱さを、『エドワード・サイード OUT OF PLACE』の佐藤真の「懐疑」に繋がる「迷い続ける」「自問」として読み換えた点にある、と僕は思います。治は、紀美の父親の本音(健康な子を確実に産める男が紀美の夫に望ましい)を知ったあと、紀美と十分に相談も議論もせずに、突然行方不明になった上、3年後突然戻って来ます。過酷な状況とは言え、治の行動はあまりにひどくないか。たとえば、治の紀美への態度と、青山真治ユリイカ』の沢井の、妻への(失踪自体は「酷い」が、自分のその酷さ自体へは誠実に向き合おうとする)態度の違いを考えてみて下さい。これは放射能事故の問題にとどまりません。治が人生全体で打ち克つべきだったのに、向き合えないまま温存してきた根深い傾向性の問題であり、肉体や精神ではなく魂のdisabilityの問題です。
 恋人の紀美に対する暴力への不感症。セックスの場面での、紀美の能動性/治の受動性の構図の強迫反復。新しい奥さんに葬式用のネクタイを締めさせる姿。――これらはすべて、治の根治困難な女性依存の心性を示します。
 小説家の大西巨人は、一つの社会的な被害を純粋化=「真空地帯」化し、自らが女性への直接・間接の性暴力の加害者である事実を自覚しえない、という解離的な精神の繁茂を「俗情との結託」と呼びました。終盤、車中で紀美とセックスした後、治はまたもや突然姿を消します。今度は紀美ばかりか新しい奥さんや子どもを残して。治は紀美に「オメは何も変わってねえ」と言います。しかし、紀美が三年の間、治の復活を諦めず、「変わらずに」いるための努力を続けたとしたら、治は「今年の春には何もかもがすんだ」どころか、むしろ周囲の無言の気遣いによって「何もかもが変わらないで済んだ」だけではないか。苦難の中で自分を裏切った他者のためになお「変わらない」精神と、「全てをすんだことにする」精神の違い。それはたぶん被曝後の「三年の月日」だけの問題ではない。もちろん「中央」の「日本人」(としての僕ら)に治を叩く資格は皆無かもしれない。にもかかわらず、経験上僕に疑えないのは、ウーマンリブや障害者解放運動において、社会的差別の純粋な被害者であるからこそ、「弱い者がより弱い者を叩く」という悪無限を断ち切ろうとした、驚くべきことにそうした精神の血族たちがいた、という圧倒的な事実です。僕は彼らの血脈から、何かを学びたい。
 しかし「何」がそんな精神を僕らに真の傷痕として刻むのか。戦いの怒り(敵に向き合う態度)と他者の痛みへの繊細な優しさ(寄り添う態度)が同時に必要になる、しかしそれができない、という失語の季節をいかに通過した/させられたか、――それがその人のあり方を自然と決めて行く、決定的な勝負の場面でその違いが自ずと明らかになる。そんな気がします。紀美や妻子の前から再び黙って姿を消した後、治はプルトニウムを盗んで東京へ持ち込みますが(終盤の極度な圧縮のため、僕は物語を理解し損ねているかもしれません)、これは、たとえ治が高校卒業後に再処理施設で働く以外なかったというアンダークラスの出自であれ、卑近な他者を踏み躙り自爆的暴力に没入する、というハウスキーパー事件や『党生活者』以来の、典型的に「左翼男性」なパターンを一歩も出ないのではないか。
 しかし紀美は、そんな治的な弱者暴力をも同時に打ち砕くのであり、「どこかへ行こう」「今からでも遅くはないと思う」と甘く囁く治の誘惑を、冷たく突き放す(冒頭近くですでに紀美は、「こっち来い」という治の言葉に従順に振る舞わない女性として描かれていた)。重要なのは、小川紳介の「僕はここに居る」とも響き合う「わ、ここにいる」が、今後の人生への態度表明のみならず、治的な暴力の強迫反復に対する絶対零度の「否定」=「へばの」をも意味することでした。しかもそれを、六ヶ所村という場所で、女手一つで赤ん坊を育てることとして試みること。
 たとえば僕は、紀美の父親の死因は、心臓の病でも自殺でもなく、紀美が殺したのではないか、と思い、ぞっとしました。今もこの解釈は正しい気がします、木村さんの自己理解を裏切ってでも。
 ●映画は、誰もいなくなった静謐な「家」で、赤ん坊を抱きながら「こちら」(観客)をふと見詰める紀美の眼差しで終わります。その紀美の眼差しに見詰められる時、木村さん(や僕)にとっての真の「自立」とは何か。「この場所」から、紀美の問いが新しく反復=変奏されねばならない。
 事実それは、木村さんが「原稿用紙150ページある、クソ長い」企画書の冒頭に記した「自立を描きたい。今、ここにあっての」というモチーフそのものでした。
 《しかし私はいまいる六畳半で、世界の情勢とも世界の映画界とも無縁な場で、世界と映画について発言したいと思った。/「権利の到来、など、一生訪れない」それが私が20代を終える直前で考えたことだったからだ。いまいる「ここ」から、映画をつくりたいと思った。私は、ここにいる。紀美と私とがいる場所は違うけれど、今いる場所の無能さから目をそらさず、言葉を発し続けられたら、と思った》(「二年半」)。
 これは世代的荒廃や時代の「無能さ」の自己絶対化ではありません。そもそも、他者から「見詰められること」、他者を撮影し見詰めていた自分が他者から撮影され見詰め返されていたという「怖さ」のモチーフは、たとえば、僕も敬愛する土本典昭さんのオブセッショナルな主題でした。それに対し、たとえば佐藤真さんは、ポスト小川紳介土本典昭という強烈な(過剰過ぎる)「遅れてきた青年」の意識の中で、自分固有の「見詰められる」経験を探し求めつつ、それに出会えず、徐々に痛ましく衰弱していったように僕には思えます(『サイード』に関して「画面に何も映らないんだよ」と語ったという、木村さんが佐藤氏から直接聞いたというエピソードは、あまりにも哀しい)。ここから僕らは何を学ぶべきなのか。「他者」から見詰められるという激痛、受容も馴致もできない眼差しに食い込まれ続けるという経験を欠く時、僕らの「今、ここ」での「自立」を目指す試みは、何を為そうが何に恵まれようが、やがて内側から衰滅せずにいない、という「怖さ」なのかもしれません。
 でも「他者」とは誰なのか。困難は「ここ」から始まる。他者はどこかに探し求めるものではなく、ただ、出遇い直すべきものだから。「自分探し」も「他者探し」も通じない誰かだけが、僕らに自らの無能さへの覚醒を無限に迫る誰かだけが、他者なのだから。
 たとえば僕の二〇〇五年のフリーター論は、フリーター的労働・生存を現に生きる自分の「今、ここ」での自立の可能性/不可能性を内部観測的に探るものでしたが、(紀美的な)他者からの視点に深く曝される、という試練が足りなかった。他方で、二冊目の二〇〇八年の『無能力批評』では、対象としての障害者や貧者の眼差しに向き合おうとし過ぎたために、「この私」の自立の困難をスルーしてしまった。――必要なのは両者を同時に、「今、ここ」で、分裂的に試みることだったのに
 ●他方で紀美も、今後再び、別の試練に直面するでしょう。
 もちろん、様々な暴力に翻弄されながら自発的に「何か」を懐胎・出産しようとする紀美と、常に「何か」を他人(からの承認)の中に求める治には、決定的な違いがある。しかしなお彼らを災厄の「その後」の時間の試練が等しく見舞うのでしょう。
 ――これは個人的な話なのですが、治/妻/連れ子の関係は、僕の父/母/兄(父親違い)の関係を思わせました。僕の母親は約40年前にシングルマザーでした。離婚した前夫との間の子ども(僕の父親違いの兄)を抱え、極貧で、秋田で凍死寸前まで追い詰められました。その後今の夫(僕の父親)と出会い、再婚し、僕が生まれ、僕の弟が生まれた。その後も、舅との関係や世間の目に数十年、他に逃げ場のない「専業主婦」という拘束の中で苦しんだ。母親のそれらの地方/首都圏を貫く重層的な「貧困」との闘争の日々が無ければ、今の僕はこの地球上になかった。僕の母親は、地方で完全な自立はできず、関東へ出てきて別の男性(僕の父)と再婚しなければならなかった。四〇年前とは状況が異なるとは言え、東北で、シングルマザーの紀美が、身近に親類もなく労働スキルも持たず、生計を立てるのは決して楽ではないはずで(父親の遺産があるのでしょうか?それとも生活保護を受給しているのでしょうか?)、みもふたもない経済問題が彼女を今後、苦しめ続けるのでしょう。
 僕はこう思います。
 『或る女』の葉子が――鎌田氏の有島武郎論が批評し尽くしたように――前半部の闘争性から後半部の弛緩と衰弱へと崩れ落ちていったならば、紀美は、治と共にいる時の闘争性→治が去った後の衰弱→治が戻った後に示す新たな闘争の復活、という三つの段階を通過したようにみえます。しかし、この三段目の復活は何処から来たのか。正直にいえば、それがシナリオや認識の強度から齎されたのか、俳優の西山さんの演技の凄みに由るのか、僕には分からなかったのです。木村さんが紀美を「産み落とした」のか、西山さんの存在が映画『へばの』への怪物的な異物=批評だったのか。あるいはその決定不能こそが映画という協同作業の奇蹟なのか。本当にわかりませんでした。
 僕らが『へばの』の本当の価値を知るためには、木村さんの次の展開を待つほかありません。
 苦難を堪え忍ぶ「女」に、腐敗した状況の浄化を託す態度こそが我々男どもの最悪の感傷だ、とは言いません。しかし僕は、有島が『或る女』で本当に試みるべきだったのは、理解不能な他者としての「女」を描くと同時に、有島本人をモデルとする古藤の存在を、葉子にある側面で匹敵し凌駕しうる存在へと何としてでも高めること、それを通して啄木的な反省=「生活を変えること」を実人生で実行することだったと思うのです。すると『へばの』においてはどうか。
 ●木村さんの警備員という現職に僕が反応してしまう(これは決してよい兆候ではありません)のは、僕も、大学院を出た後、コンビニや本屋のバイトと共に、警備員の仕事をしていたからです。その後間もなく僕はヘルパー2級の資格を取得し、障害者施設の臨時職員になり、その約二年後には別のNPOの正規職員に「上昇」しました。僕と木村さんを単純に同一視はできませんが、あの警備員時代の奈落感覚は今も消えません。その頃の経験をもとに僕は最初のフリーター論を書いた。現在のグローバリゼーションという現実性が僕らに強いるのは、政治的にも労働的にも、被害と加害の重層的な決定不能(の全面化)であり、またそれが齎す失語(「加害者だ」と滑らかに口にすることもできない)なのではないのか――もちろんそれは未曾有の新しい事態では決してありませんが。
 ならば、六ヶ所村で紀美が強いられている現実と、東京で警備員をしながら困難な条件下で自主制作・自主上映作品を撮り続ける木村さん(や僕たち)が強いられている現実――、ローカルとグローバルのそのクロスポイントから、「今、ここ」から、問いを全面的に練り直さねばならない。
 もしかしたら、その先で、真に互いを生かし合う「出遭い」が生じるのかもしれない。僕自身がずっと昔「へばの」を告げられた大切な人々を思い出しながら。彼女たちとの不可能な出遭い直しを痛く遠く信じながら。「前を向いていれば/また会えますか/未来はどこへでも続いているんだ/二度と会えぬ人に場所に/窓を開ける」「私たちにできなかったことを/とても懐かしく思うよ」(宇多田ヒカル)。
 紀美の一騎当千的な闘争は、いつか限界を迎える日が来る。必ず来る。その時こそ、紀美が「協同」を再び試みるとは何か、「至る所に紀美はいる、しかし、紀美に寄り添い、六ヶ所村の紀美を迎えに行くに足る人間がいない」という極寒の中で、僕らが再び紀美と出会い直し、協同を再開する条件とは何か。それが問われることになる。その日もやはりきっと来る。僕はそのことを、まだ抽象的な言葉でしか語れません。しかし、必要な時間の試練に耐えつつ自らを怪物的な協同/協働の再契約に足る人間へと高めること、それだけが、(「日本人」「健常者」「男」「都会人」である自分を無限否定するのではなく)この自分の人生をも全力で生かしめること、自分の「宿命」と「明日」を本当に愛すること、真に「今、ここで自立すること」の、必要条件なのではないか。
 ●その上で、僕が思い出すのは、再び土本監督の映像の強度、崩壊(衰弱)と甦り(復活)が入り乱れつつ進行していく「水俣」の複層的な時間の強度でした。
 たとえば『水俣――患者さんとその世界』(一九七一年)の画面は、殆ど異星の記録映像のように、画面を見る僕らの感覚を粉々に打ち砕いてしまいます。これは「可愛そうな被害者」の映画ではない。『水俣』は、俯瞰不能なほど複雑で「悲惨」な空間をモザイク状に浮かび上がらせつつ、その中で生きざるをえない人々がかちえた「喜び」の発光体を無数に映し込んでいるからです。あるいは『不知火海』(一九七五年)の時間感覚です。『不知火海』の撮影時は、すでに、政治運動・社会運動の退潮期に差し掛かりつつあり、弛緩の気配が見え隠れします。しかし、『不知火海』の画面が捉える「水俣」を流れるのは、その弛緩とは自ずと別の時間性であり、資本主義的・文明的な「災厄」の経験の後に生じる普遍的かつ重層的な時間のベクトル・リズム・断層であるかにみえます。たとえば『不知火海』の画面には、すでに、『水俣』『水俣一揆』の時の闘争=祭りの昂揚はありません。しかし、回復・治癒・健忘へと順調に向っているのでもない。本来の「自然」が自浄的に回復するという(石牟礼道子的な)ストーリーも成り立たない(事実、たとえば漁師のとる魚も、容赦ない商品交換や景気循環の中にある)。あるいは『チッソは私であった』の緒方正人さんは、被害者の自らの中にある加害性、内なるチッソ性の認識において凄まじいのですが、社会・政治の水準から「自然」の水準へと跳躍してしまったようにも思えます(ある暴力が人災か天災かの決定不能の中で闘わざるをえない、という真に困難な試みの回避)。
 そこにあるのは、単純な弛緩でも甦りの物語でもありません。複層的で多様なずれや衝突が無数に生じていて――そしてたとえば『水俣』の諌山さん(未認定の胎児性患者の母親で、彼女自身が水俣患者であるにも関わらず記憶障害その他からそれを意識化できない)、『不知火海』の清子ちゃん(世界の何を見ても「美しい」とも「悲しい」とも実感できないという、医師や家族ばかりか同じ胎児性患者とすら共有できない精神の氷点を抱え込まされている)のように、その復活的な過程にすら参入不可能な人々の絶対的に静止し凍結した時間性があり――、しかしその全体こそが、「水俣」の経験を豊饒化させていく黒土となり、腐葉土となっていくかのようです。ここでは「映画」が、現実の市井の生活者がすでに生きている生の潜在能力を覚醒的に開きつつ、「倫理的な個人の一騎当千の闘い」でも「聖別」でもなく、「水俣」を未曾有の〈協働〉の空間として産み直していくかのようです。運動/芸術の対立を打ち砕く〈運動=芸術〉となっていくかのようです。
 でも、「何」が、こうした複層的+持続的な認識を僕らに齎すのでしょうか。土本さんは、「敵」との闘争と同時に「甦り」の予兆や気配を自然や人々の表情の細部に、繊細に発見しようとしました。闘争なしの甦りの記述は直ちに宗教的復活に堕してしまう、と何度も念押しした。闘争と甦りの同時性。ここでは闘争の意味も複数化せざるをえません。敵はチッソだけでも政府だけでも科学者だけでも医者だけでもない。事実、水俣の人々は、共同体内部の「隣人こそが最悪の敵」という陰惨な現実にも苦しんできた。しかし、肝心なのは、彼ら自身の力によってそれらの泥沼を越えていく、そうした兆しが至る所に見出されていくことです。たとえば彼らが闘争のリミットで行き当たるのは、自分たちの敵を隣人として再発見する、という可能性でした(『水俣一揆』での、チッソ社長との敵対的な友愛)。敵との間にすら信頼(信用)が生成すること、共に生き延びる信用がありうること――これは水俣の人々にとっても、端的に驚きだったはずです。具体的な闘いの継続の中でしか見えてこない甦りがあり、繊細な優しさの中にしか見えてこない闘いがある。しかし、それらの重層的で複層的なプロセスそれ自体が、じつは、一つの世界の、一人の人間の「甦り」=「闘争」なのではないか。撮る者や観る者たちは、そう信じるほかにないのではないか。
 そして、もちろん僕に何かを言う資格は絶対にありませんが、「水俣」の「自立」がありうるならば、それは、毒の完全な浄化/企業や国に責任を認めさせること/国内第三世界的なチッソ(資本制企業)の呪縛からの地域経済の解放、等のみならず、世界中の「第三世界」や被災地と間接的に繋がりつつ、「水俣」が無限に甦り続けることなのではないだろうか。アウシュビッツヒロシマに続いてミナマタを世界遺産に、という川本輝夫さんの提案もそういう意味だったのではないか。不遜ながら、そんなふうにも思ったのです。
 繰り返しますが、土本さんの映画は、現実そのものを映すというより、現実以上に現実的な現実(の一断面)を、その潜在的可能性を引き出していくわけです。おそらく、映画や批評という無力なジャンルになおできることがあるなら、偉そうな行動規範の外部注入でも腰の砕けた後方支援でもなく、当の対象となる人々自身がその生活を通してすでに生きてはいるが十分に自覚しえていない生存原理(セオリー)を光学的に拡張することであり、覚醒的に普遍化していくことではないか。僕らは「現実を変える」という言葉を普段硬直的に捉えているから、過剰な暴力に走るか、過剰な絶望やシニシズムに陥ってしまう。しかし「現実を変える」の意味にもまた複数のレイヤーがあり、映画や批評は「現実を変える」という既成の言葉の意味をも変革していかねばならない。いずれにせよ僕らは、インディーズ系芸術の界隈と社会・政治運動の界隈に蔓延する粗製乱造と貧困化、それらを同時に次の局面へと切り開く「芸術的=政治的運動」を、たとえ実行不可能なゾルレンとしてであれ、依然目指し続けるほかにない。
 何度でも繰り返しますが、これらの重層的な「闘争」=「甦り」を、「権利の到来、など、一生訪れない」自分たちの足元=「今、ここ」へと切り返すこと。「今、ここ」から始め直すこと。世界中の被災地と間接的に共鳴し合いながら無限に自らを復活させ続けること。おそらく木村さんや僕のミッションは、こうした問いを理論的+実践的に問い続けることなのではないか。要するに、僕らはまだまだ甘ったれなんですよ。「俺は無力だ」という性急な自己反省の何倍も無力で無能なんですよ。
 しかも僕らの生活や生存は、自殺した佐藤真さんが直面した以上の「遅れ」=「上げ底」=「泥沼」の中にあるのです……。
 ●すでに長くなりすぎました。
 近いうちに、どこかでお会いし、ゆっくりお話しできる機会があれば、嬉しく思います。――今、子どもが慢性的な体調不良で、中々時間がとりにくいのですが。でも万難を排して。それから素朴に、木村さんの作品にふれて、今は、色々な若々しい映画をみてみたくなりました。小谷忠典さんも、山崎樹一郎さんも、板倉善之さんも、NDSの人々の作品も。僕が人生の中で一番映画をみた二〇代前半のような新鮮な気持ち、「ああ、世界にはこんな未知の表現があるんだ」「こんなすごい奴らが同じ世界に生きているんだ」という気持ちを甦らせる映画と出会いたい。木村さんの次回作の進行はいかがでしょうか。条件面や内容面での苦難も多いと想像しますが、楽しみです。安易に大量に書けてしまう、映画を撮れてしまう状況下で、持続的な難産に苦しみうる精神は、それだけで一つの武器になりえますから。ではお元気で。冬場の警備の仕事は体と神経を削ると思いますが、互いに「厳冬」を乗り切りましょう。


 杉田俊介