佐藤友哉『鏡姉妹の飛ぶ教室』

鏡姉妹の飛ぶ教室 (講談社ノベルス)

鏡姉妹の飛ぶ教室 (講談社ノベルス)



 久々に小説を*1佐藤友哉鏡姉妹の飛ぶ教室』。彼の小説は基本的に講談社ノベルスの4作品しか読んでない。それ以来。
 佐藤の資質と言える『水没ピアノ』的な構造性(とそのリミットに生じる破綻)はなく、スピーディにアクティヴに物語はドライブする。大地震で地下に沈んだ高校。生徒の殆どと教員の全員が死亡。生き残った生徒たちは(地震とは別の理由から)死闘を繰り広げるが、彼らは全員が不自然なほど「上/下」「勝ち/負け」「強さ/弱さ」…の二元的な価値観に拘る。彼らの議論は(恐らく作者の意図的に)幼稚で、「対話」とも呼びがたいが、表面をすべっていく饒舌/漫画チックな沈黙だけが延々と空転していくが、その総体には妙な切迫感がある。幼稚な饒舌さとマンガ的アクションがセットで。舞城王太郎の全てを押し切る「無敵の主人公」的な全能感*2とも違う感触がある。佐藤の言葉はナルシス的「自意識」の空転だけでは確かにない(家族の捉え方も舞城よりずっとモダニティがあり、中上健次のそれを未来に想起させるのはむしろ佐藤だろう)。イロニーのような遊びと余裕もない。言葉は幼稚でぺらぺら足らざるを得ないが、そんな人びとが、妙に断定的な「強さ/弱さ」の価値観に拘り、絶対的勝利者であれ「弱者同盟」であれ、その座標軸のどこかに自分を位置づけない限り、いきのびられない(弱くも強くもないことが全く許されない)。そんな切迫の感覚。ドライブ感。
 佐藤友哉の原点には、他の誰も必要ではないがあなただけを愛憎し必要とする、そういう相手にこそ関係=対話を絶対的に、一片の容赦もなく断ち切られる瞬間に露呈する何かがある。無駄な引用と饒舌の背後には、言葉を絶対的にはねのける、空虚でも沈黙でもない、純粋な拒絶の光景がある*3
 この作品ではその感覚は薄く、わずかに浩之が姉の唯香に拒絶される瞬間に露出するが*4、完全な破綻に至らず、物語も後半に入ると、ライバル的殺し合いの関係にあったキャラたちは一致団結し、協力し、水没寸前の学校から脱出を試みる。佐藤的に珍しい展開。最後、佐藤友哉的物語であれば脱出失敗に終わり全員死亡でもおかしくなかったが(麻耶のある作品のごとく)、これも珍しくもハッピーな肯定感を残して作品は終る。あたかも全員を助けるための犠牲の山羊のように一人の「私」が命を落すが、そのイメージも、非力ながら地下の世界であらゆる力を尽くし、最後に手の届かなかった「私」へ向ける「お疲れ様」という優しい言葉と響きあい、ぼくは率直に感動してしまったのだった。この作品を傑作と呼ぶには躊躇われるが、幼稚さが単なる幼稚さ、破綻が単なる破綻ではなく、未来へ続く助走のポテンシャルを秘めた小説家にぼくには見え、やはり目が離せない人なのだった。私的に。*5

*1:数ヶ月前の『アルカロイド・ラヴァーズ』以来かな??

*2:舞城的全能感のドライブは、形式的なメタフィクションの体裁を取る『九十九十九』にかえって典型的に現われる。舞城の小説に真の「構造」はたぶんない。

*3:法月綸太郎の探偵の憂鬱、麻耶雄嵩の主人公の無力さ、佐藤友哉の主人公の絶対的被拒絶性……、には共通の匂いを感ずる。

*4:むしろ無痛症の殺人鬼・江崎の「愛のめざめ」の瞬間の方に安っぽいが奇妙に感動的なリアルがある。

*5:全然関係ないけど「春樹チルドレン」という言葉があるのを、初めて知った。西尾維新佐藤友哉舞城王太郎本多孝好伊坂幸太郎吉田修一石田衣良大崎善生三雲岳斗滝本竜彦乙一上遠野浩平……、などらしい。三浦雅士は、ある世代の読者にとって「柴田元幸村上春樹の翻訳したアメリカ小説」が参照すべき一つのデータベースを構築していると述べるが、村上春樹の小説も一つの世界観、データベースを構築しているのだろう(「トリビュート」なんてまんまだし)。