滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)



 アニメチックなセーラー服の戦闘美少女・雪崎絵理は、夜な夜な現われる不死身の「チェーンソー男」と戦い続ける。主人公の平凡な高校生・山本陽介は、ある日彼女と出会い、彼女と共に夜の街に自転車で繰り出す(が、戦闘能力は無く、戦いの役には立てない)。「身近で私的なたたかい」が「世界を守るたたかい」へ(中間軸がなく)短絡される(内在=超越)。このショートサーキットは「セカイ系」と総称される*1。この抽象性を強度に「リアル」と感じる一群のメンタリティがある(らしい)。そのセカイ系の骨組=構造を、そのまま純粋に取り出すと、この小説の物語になる。青春小説。青春を空費する小説。生活の機微に満ちたリアリティではなく、「専業子供のリアリティ?」。作者には、それが無駄で恥ずかしい、青春の空費だ、という自覚がある。しかし、その自覚は状況を好転させない。そのことの、自覚もある。それでも、何も変らない。終盤で明かされるが、雪崎絵理は、交通事故で家族全員を失っていた。その悲しみに耐えられず、「諸悪の根源」「わかりやすい敵」として、家族の葬式の夜、チェーンソー男を想像的に捏造する。想像の敵と戦い続けることで何とか自分の精神を持ち堪える。山本陽介も実は、尊敬する親友をバイク事故で失っていた。彼が雪崎絵理の戦いにコミットした「原因」の一つは、それだとされる。トラウマの共同性?でも、それだけじゃない。雪崎絵理は想像の敵を捏造することで自分を持ち堪える(とされる)。山本陽介は「謎の敵と戦い続ける制服姿の」雪崎絵理という「戦闘美少女」を捏造することで、自分を持ち堪える。彼女は、オタク的男性の欲望の都合通りの存在だ。萌えキャラだ(絵理のツッコミはローキック、つまり「蹴られたい」背中?なのだ)*2。その意味で、この小説には本当は生身の女性、生身の「雪崎絵理」は存在しない。「雪崎絵理の妄想」を包み込む「山本陽介の妄想」だけがある(事実全ては上手く行く、絵理は陽介を「好きです」)。もちろん、そんなことはわかっている。その二重の妄想への自覚=イロニーも作者にはある。それでも、この淫猥な「セカイ」の狭さをどうすることもできない。妄想を妄想のまま肯定するしかない――しかも、とりたてて過剰さもいびつさもない、それ自体が凡庸で狭隘な妄想を。


 ……でも、この小説の世界観を否定できない自分がいる。身をよじられるぎりぎりの切なさを感じてしまう自分がいる。それをどうすればいいんだろう?*3

*1:笠井潔は、「社会領域の消失と「セカイ」の構造」で、「セカイ」を「日常的で平明な現実にいる無力な少年と、妄想的な戦闘空間に位置する戦闘美少女とが接触し、キミとボクの純愛関係が生じる第三の領域」と定義し、「セカイ系」を「私的な日常(小状況)とハルマゲドン(大状況)を媒介する社会領域(中状況)を方法的に消去した作品群」と定義している(らしい)。

*2:綿谷りさ『蹴りたい背中』は、オタク男子+萌え対象的女性のつかず離れずの関係(しかも性的関係をややあざとく宙吊りにする)という「君とぼく」構造を中心に持つが、それを女性の側から、しかも肯定系で描いたことにポイントがあり、綿谷という「美少女作家」の側から、匿名のオタク的メンタリティを補完する意味があった……らしい。今思い出したけど、角田光代の『草の巣』は、このタイプの関係をもっと生々しくグロテスクに書いた作品だったと思う。女性側の屈折した欲望をついに萎えさせるコレクター男性。

*3:そうそう。言葉使いが随所に大槻ケンヂ。「だがしかし!」「そんなことはお前の人生にはなんの関係もない!」とか。チェーンソー男だって「風車男ルリヲ」だし。そういや『エヴァンゲリオン』の綾波レイの包帯姿のモデルは「何処へでも行ける切手」の「包帯で真っ白な少女」だそうだし、割とオタク的イメージのもとになっているのかしら、筋肉少女帯