保坂和志『プレーンソング』
- 作者: 保坂和志
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2000/05/01
- メディア: 文庫
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保坂さんはよく村上春樹と比較されるが事実(顔だけじゃなく)作品の構造=骨格は似てる。ぼくの印象だと村上さんは「屈折した」ロマンティストで保坂さんは「屈折した」リアリストに見える(村上春樹を「屈折」なしのロマン主義として読みかつ批判するのはバカゲテイル)。作者に近いが微妙にフィクション化された「ぼく」がいて、そのささやかな日常があり、でも大もとには、恋人/妻/猫の喪失(死か失踪か?)がある*1。でも対処法は全然べつ。というか、その喪失感に対処するために自覚的につくられたライフスタイルが、小説の流れ、展開、人間関係の基調を独自に生み出す。村上の「僕」は10代後半で時間が静止し、保坂の「ぼく」は30歳前後で時間が静止したような(というか、その「時」に唐突にこの世に出現したような)。
例えばこの『プレーンソング』(単行本1990年9月)も、その「自然な」印象とは逆に、物語の初期設定(ベース)はかなりカッチリと構築されていて、その枠の中に配置された「ぼく」や猫やその友人たちの関係が、自由に、生活の流れの中にさらされ、時間が「流れる」にまかせている。実際、ほぼ同じような設定・世界の小説を、保坂さんも村上春樹も延々とぐるぐると書き続け、しかもそれが変奏や醗酵をはらんで、各作品が面白い(村上の場合は時に「物語」が強力に、ささやかな「僕」的日常に介入するけど)。
『プレーンソング』の「時間」の流れは(有名な、会話が延々数ページ続く終盤のシークエンスに象徴されるけど)するするしていて、保坂さんチックな(?)「長い長い日常哲学」の過剰さはあまりない。たぶんそれは、『プレーンソング』が「ぼく」の設定をものすごくゆるい「受動性」に置いた点と関係する。「ぼく」の住む2LDKの部屋にはするすると色んな人たちがやってきていつの間にか住み始めたり出て行ったりするけど(ルームシェア小説)、「ぼく」の人格はこの「部屋」とよく似ている。
場面が変るのは常に「ぼく」にふらっと「誰かが会いに来た」時であり(例外は学生時代からの友人でよき電話相手の「ゆみ子」)、外から誰かが会いにくるリズムが彼の中に中期的な生活の時間を刻み、そのやってきた他者たちとのだらだらな会話や関係性がその時ごとの時間を刻んでいく。
この種の《時間》の流れ方は、すごく大雑把な言い方をしてしまえばジャームッシュとかある種の「1980年代的」な感覚をトレースし、というか読者にたぶん「再発見」させ、しかもそれを(何かを批判する対抗原理としてではなく)根本的に「よいもの」として肯定する強度があると思われ、この感覚は意外と例えば上野千鶴子に潜在するある種のフェミニズムと繋がりがあると思われ*2、しかもそれが《文》の進み方=歩き方としっかり結び合っている。だから『プレーンソング』から任意の一箇所だけを抽出し取り出して解説したり、作品の構造=骨組を取り出して分析してもあまり意味はなく、一つの言葉はあくまで目の前にいる具体的な誰かとの会話の文脈・状況に規定されていて*3、全体をゆるゆると読み進めながら読者の側に醸成されるある種の《気分》の中にこの小説の太い根があり、だから読者の側も保坂的な文=時間にペースをあわせるチューニングが必要なのだが、その作業を単にダルイと感じる人も心地いいと感じる人もいるだろう。基本的に、『プレーンソング』の空間からは敵対的な・不穏な他者やノイズは慎重に取り除かれ、そこそこ親密な友人・知人だけが存在を許される(人間になつかない猫の存在が一番の「他者」だ)。でもそれが単純にナルシス的な自閉には決してならない。
ところで最近、ストレートに「本当の愛」「死と実存」等を語ることは青臭くみっともなく、むしろ最悪に害悪であって、それを断念した先でそれらとは別の世界の神秘性(「自分の死のあとも世界は続く」「他者との想像的一体化ではなく、偶発的で微細な出逢いこそがコミュニケーションだ」)を求める「屈折した」リアリズム(真の日常的唯物論!)が「大人」の生き方であり成熟だ、という風潮(?)が強いと思うけど、いやそれは本当に大人の成熟だとわかるし保坂さんの真骨頂(の一つ)もその辺にあるんだろうけど、時に「ロマン」を性急に排斥するスタンスがこれらの「屈折した」リアリズムの厚みとディメンションを低めている気もして、強力で過剰な「ロマン」(神とか全否定とかだ)から生じる何か「べつの」リアリズムもある気がして、その意味では個人的に、保坂さんの作品の中でも、合理性や偶然性とは異なる神秘の感覚(存在することは無条件によいことだ!)を即興的に書いた『生きる歓び』なんかがすきなのだった。