長期持続する支援

 おそろしく覚悟のいる言葉だ。「長期持続が可能であること」は支援者の単なる「前提」だというのだ。

「現実的切迫性」をあまりに強調しすぎる語り口は、一方で不安を煽りつつ、もう一方で不安慰撫商品の消費を促進する「恐怖の資本主義」あるいは「恐怖と消費の一大キャンペーン」を連想させて、わたしは正直いって忌避したいと考える。取り組むべき問題それ自体が、最近急に発生した問題なわけではない(そう感じるとすればそれ自体が「構築」の効果ではないのか。ちなみにメディアによる「構築」の一例に関しては、【ここ】を参照)。その背後に長期的に生成した発生条件があればこそ、それへの取り組みにも同種の長期的な視野と対応が必要になるのではないか。加えて、支援の世界では、支援のための資金も、資源も、人材も、圧倒的に不足しているというのが実情だ。
 したがって、子どもたちを救いたいのであれば、子どもに直接アプローチする人材や資金が必要だし、そのためにはその人材や資金を集めるための人材や資金を集めることが必要。そのためにはその人材や資金を集めるための人材や資金を集めるための人材や資金を集めることが必要で、そのためには(以下略)。支援の現場に立つということは、そういう面倒くささを引き受けるということでもある。であればこそ、そういった迂遠さやそれに耐える冷静さがなければ、長期的に持続可能な「支援」など端的に不可能。長期的に持続不可能な「支援」などに意味はないわけで、だからこそ「長期持続が可能であること」を前提に支援というものを考え、組み立てていかなければならないと思うのである。(http://d.hatena.ne.jp/takiguchika/20050626