ゲーム的メタリアルと労働のメタリアル



 東浩紀は二〇〇七年に刊行された『ゲーム的リアリズムの誕生』において、『ALL YOU NEED IS KILL』『九十九十九』『ひぐらしのなく頃に』『時をかける少女』など、登場人物が人生のリセットとリプレイを繰り返すタイプの小説・アニメの形式に「ゲーム的リアリズム」を見出そうとした。
 よく知られているように大塚英志は、様々な著書の中で、自然主義リアリズム/まんが・アニメ的リアリズムを理論的に区別している。日本の伝統的な自然主義リアリズムは、自然・風景・心理などを客観的に、そのまま模写しようとする。これに対し、「まんが・アニメ的リアリズム」は、まんが・アニメの中に登場するような「キャラクター」(宇宙人や超能力者や未来人)を写し取り、それを小説化しようとした。そしてそこにこそ自分たちのリアルがあると見なした。まんが・アニメ的リアリズムを代表するのはライトノベルであり、大塚はその感覚の原型をたとえば新井素子の「ルパンのような小説が書きたい」という言葉に見出す。
 東浩紀はこうした大塚の議論を発展させ、「ゲーム的リアリズム」という概念を提示する。東が参照するのはシナリオ分岐型の美少女ゲーム/ギャルゲーであり、またそれと類似した世界観・構造をもったライトノベルや文学作品である。ただしその場合、東は、萌えキャラを欲望のままに並べた通常のアダルトゲームというよりも、メタフィクショナルな批評性をもつ作品に、ゲーム的なリアルが発生すると考える。それらの作品はメタフィクショナルな形式を通してしか表現できない、新しい《リアル》を描く。
 しかし、このリセット・リプレイの感覚は、たんに「ゲーム的なもの」だけから来るのだろうか。そこには別の「リアル」――ロスジェネ的な労働感覚――が混入しているのではないか。



 『ゲーム的リアリズムの誕生』が詳細に分析している桜坂洋の小説『ALL YOU NEED IS KILL』は、以下の戦場の描写から始まる。

 《遠く離れた弾が奏でる音は低くにごっている。腹を揺り動かす乾いた音だ。近くをかすめる弾は高く澄んだ音を発する。頭蓋をびりびりと震わす金切り声をあげて、そいつは、ぼくに向かってくる。地面に突き刺さる。土埃を巻きあげる。埃のカーテンに次の一弾が穴をあける。
 空を焦がす幾千幾万のうちたった一発、指ほどの塊が体を通り抜けるだけでヒトは死ぬ。ついさっきまで動き、笑い、冗談を投げつけていたあいつが、次の瞬間なまあたたかい肉の塊になる。
 死というやつは、唐突で。あっという間で。容赦を知らない。》



 一読して感じるのは、この作品の戦争や日常の描写に奇妙なほどリアリティが欠落していることだ。批判したいのではない。この感覚はたとえば、ワーキングプアのライター、赤木智弘が「31歳フリーター。希望は、戦争。」と書く時の、奇妙なリアリティのなさと地続きであるように思われる。すなわち赤木は、戦争を希望すると主張しながら、日本国の戦争相手(敵国)の具体的イメージがあるわけではなく、戦争相手はべつに「宇宙人」でも構わない、と言っていた。ほとんど涼宮ハルヒのように、である。
 彼らの言葉においては、ひりつくような日々の労働(現実界、労働のリアル)と抽象的でペラペラな空想(想像界、ゲーム的リアル)が、不思議な形で捩れながら接合されている。赤木が希望するのは文字通り『ALL YOU NEED IS KILL』のようなフィクショナルな戦争であり、その中にあるメタリアルである。逆にいえば、桜坂作品が表現する「ゲーム的」なリアリティもまた、赤木のフリーター的な労働感覚とどこかで地続きになっているはずだ。
 事実、桜坂の別の作品、『スラムオンライン』では、主人公の青年の存在感覚が以下のように描かれる。

 《ゲームに時間を費やすのは無駄だ。保証する。ネットゲームは特に無駄だ。これも保証する。だけれど、ゲームに時間を費やすのが無駄というのなら、リアルな世界で時間を費やすほうがゲームより有意義な理由はあるのだろうか? とぼくらは考える。(略)
 ぼくらは、ゲームとともに育ちゲームをやりながら大人になる最初の世代だ。(略)
 たとえばの話だが、リアルマネートレーディング(RMT)をすればゲームの世界だって金を稼ぐことは可能だ。ネットのオークションを検索してみれば、ネットゲームのマネーをリアルマネーで売っているのがすぐに見つかる。レアアイテムがとんでもない値段で取り引きされていたりもする。買う側は、リアルな世界で金を持っているけれどゲームをする時間がない人間。売る側は、リアルな世界では金はないけれど時間があり余っている人間。自分が「ゲームに費やした時間」を切り売りすることにより、リアルな世界で生きていくためのマネーを手に入れることだって可能なのだった。
 それは、ブルーカラーと呼ばれる労働者が普通にやっていることだ。バーチャルは無価値という人がいるけれど、そんなことはない。(略)
 バーチャルの中は楽しいのではなく、リアルと同じくらいつまらなく平凡であり、リアルと同じように無価値だ。RMTをしてしまった瞬間、リアルの価値観とバーチャルの価値観が数学的な記号で結ばれてしまう。》



 リアルよりバーチャルのほうが楽しく生きやすい、ということではないだろう。それらの二つの次元は自分の人生にとってはフラットであり、等しい価値しか持たない、ということだ。現実の生きづらさからバーチャルな世界に逃避しているのではない。事実『スラムオンライン』の主人公は、同級生の女の子から一方的に好かれるのだが、リアル恋愛よりもオンラインゲームの世界で「辻斬りジャック」を探し出すことを優先し、選択している(もっとも最後に青年は『ノルウェイの森』のようにリアル恋愛にコミットするのだが――そして『スラムオンライン』の強度は、現実/虚構の狭間で揺れ動き、最後は虚構の側に「あえて」コミットする『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』(セカイ系の起源的小説)の水準を十分に通過していない)。
 たとえば最近、ゲームマネーのRMTの話がよくニュースになる。海外からゲームマネーを稼ぐために来日する外国人もいる。ネット勝ち組=ネオニートはごく一部だろうが、状況が進んで、稼げる時給の水準がコンビニとオンラインゲームでほとんど同じになった、価値の違いがなくなった、と想像してみればどうか。そこに生じつつあるのはどんな労働感覚なのか。


 『ALL YOU NEED IS KILL』の主人公の青年キリヤは――絵本『100万回生きた猫』や『ジョジョの奇妙な冒険』のバイツァダスト/ゴールドエクスペリエンスレクイエムを自然に思い出す――、ギタイとの戦闘で死ぬたびに、約三〇時間前の時間に連れ戻される。彼はそのループ感覚を次のように説明する。

 《だけれど、ぼくは戦場から逃げ出すことができない。タテヤマの先に大きな滝があって、世界がそこで終わっていたとしても気づくことができないのだ。前線基地と戦場を往復し、地を這う虫のように殺される毎日。風が吹いたら生き返り、また、死ぬ。次のループには何もぼくは持っていくことができない。持っていくことができるのは、孤独と、誰にも伝えられない恐怖と、手に染みついたトリガの感覚――。
 このクソったれな世界には、どうやらクソったれなルールがあるらしい。
 いいだろう。(略)
 持っていってやろうじゃないか。この世界で最高のものを次の日に持っていってやる。敵弾を紙一重でかわし、ギタイを一撃で屠る。もしもリタ・ヴラタスキがとてつもなく戦闘技術を身につけた人間であるなら、無限の時間を使ってぼくもそこまで到達してやろう。
 それだけがぼくにできることなら。
 なにも変わらぬ毎日を変化させる方法なら。
 クソったれな世界に対する、唯一の反抗であるのなら。》



 「前線基地と戦場を往復し、地を這う虫のように殺される毎日」。
 この言葉をありのままに受け入れよう。その言葉の薄っぺらさも含めて。
 赤木は、自分の労働感覚を「夜遅くにバイト先に行って、それから8時間ロクな休憩もとらずに働いて、明け方に帰ってきて、テレビをつけて酒をのみながらネットサーフィンして、昼頃に寝て、夕方頃目覚めて、テレビを見て、またバイトに行く。この繰り返し」と書いていた。赤木は「この繰り返し」を破壊するために、「希望」としての「戦争」が訪れることを願っている、という。
 しかし、さらに考えてみれば、赤木のようなワーキングプアの人々は、日々のバイト生活の中に「戦争」のような痛みをダイレクトに感じているのではないか。たとえば雨宮処凛は、ある知人が、戦時下のイラクで沢山の人の死にふれたあと帰国してみると、友人数人が自殺していて、「ああ、日本にはこれがあったんだ」と呟いた、というエピソードにふれている。その上で、フリーターの現実を「空から爆弾が降ってくることもなく、米軍に射殺されることもない「平和」な日本で、それでも若者たちは自分自身に殺されていく」と述べる。国内の労働状況のある部分は、ほとんど内戦に近いのだ、と。
 そう思って読んでみれば、『ALL YOU NEED IS KILL』の引用箇所の「だけれど、ぼくは戦場から逃げ出すことができない」「風が吹いたら生き返り、また、死ぬ。次のループには何もぼくは持っていくことができない」「なにも変わらぬ毎日を変化させる方法なら」「クソったれな世界に対する、唯一の反抗であるのなら」という言葉も、ゲーム的なリアルであると同時に、末端の労働感覚が強いる《リアル》でもあるのではないか。そこでは、一定のバブル感覚=上げ底にあった岡崎京子の「平坦な戦場」すらもがどこか牧歌的なものに思えてくる。
 「生きているのか死んでいるのかわからない」という常套句を述べたいのではない。「過剰流動性」という社会学の言葉もどこか遠い。自分が日々、一回一回、死んでいる。殺されている。そういう一回的な感覚が確かにある。にもかかわらず本当には死ねない、「前線基地と戦場を往復し、地を這う虫のように殺される毎日」は何も変わらない、また明日も殺されるためにそれぞれの職場へと足を運ばねばならないのだ。
 心身が使い捨て可能な労働力商品へと変換される、ということの激痛。不安定な身分の労働者にとっては、その激痛=「地を這う虫のように殺される」感覚は、日々の更新ごとに身体に食い込んでくる(『ALL YOU NEED IS KILL』の弱さの一つは、「一回一回」ごとの死が強いる肉体的な痛みの描写があまりにも弱い点にある――『ジョジョ』五部のディアボロの苦痛を想起すれば、それははっきりする)。




 ではこの労働感覚はどこへ向っているのだろうか。
 東浩紀は『ALL YOU NEED IS KILL』の核心を「選択の残酷さ」(を主人公が最後に引き受けること)に読み込んだ。

 《無数のループを経験したリタは、人々の運命がいかに多様で、かつ偶然に左右されているかを知っている。ヘンドリクスは生きることも死ぬこともある。あるループでは彼が幸せになり、別のループではほかのだれかが幸せになる。にもかかわらず、彼女がループを抜け出し、「明日へと進む」とき、傍らにあるのはひとつの可能性でしかない。もしかりにヘンドリクスが生き残ったとしても、そこで傍らにいるのは「この」ヘンドリクスでしかなく、ありえたかもしれない無数のヘンドリクスは消えてしまう。リタの嘆きはここでは、彼の死そのものにではなく、むしろその残酷な条件に、すなわち、ヘンドリクスの生が多数的であり、彼女にはその多様性が見えているにもかかわらず、結局はそのひとつの生しか、したがってひとつの死しか選べないことに向けられている。》(179p)



 東は確かに、世界がわたしたち主体に強いる偶然性の怖さをとらえている。しかし、そこにはまだ、自分が現実の何事かを選択しうる、という主体の特権性が残されている。そこでは他者が「生きることも死ぬこともある」のは「私」のメタな「選択」の結果とされる。つまり、「私」が自ら「ひとつの可能性」を選び取れる、という余裕は奪われていない。東氏のいう「残酷な条件」は、実際は、現実に見合うだけ十分に残酷なものではない。
 手元に与えられた選択肢の中からは何も選びたくない・選べないのに、その中から何かを選ぶ以外ない、「ひとつの可能性」を受動的に選ばされていく、しかもその選んだものさえもが一山いくらで取替え可能なものでしかなく、他人の人生を本当には決して左右し得ない……。そういう意味での労働の《メタリアル》の感覚。東の議論に欠けているのはそうした感覚であり、日常の中でリセットを強いられる経験と「プレイヤー視点」の超越論的な余裕はやはり違うのだ。
 たとえば佐藤友哉の『水没ピアノ』、滝本竜彦の(『ネガティヴハッピーチェーンソーエッジ』『NHKにようこそ!』等の物語小説よりも)メタエッセイ『超人計画』等には、そういう「ゲーム的、労働的」なメタリアルの感覚があるだろう。
 それらの作品では、労働の痛みが、あまりにも不毛で取替え可能であるから、通常の自然主義の描写で描くことができない。そこから奇妙にメタフィクショナルな小説の形式が選ばれる。日々のリアル(現実的なもの)を真っ直ぐに表現しようとすれば、小説の形式が不思議に破れていくのだ。これらにくらべると、東氏は、自らゲームプレイヤー的全能性/メタリアルを十分に切断=分離し切れていない。メタリアルは「ゲーム的なもの」と「労働的なもの」のクロスポイントに生じている。それを「ゲーム的リアリズム」のみに還元することはできない。


 では、こうしたリセット&リプレイの悪循環を断ち切って「この世界で最高のものを次の日に持っていってやる」には、どうすればいいのか。問いはようやく、ここからはじまる。