リセット・リプレイ願望とルサンチマン



 『PLANETS』Vol.3(http://www.geocities.jp/wakusei2nd/p3.html)に掲載されているという三ツ野陽介「 内輪のリアルを語る者は誰か? 東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』を出発点に」を僕は読んでいない。しかしあるところで、その原型となる三ツ野氏の文章を読んだ。


 人生をもう一度やり直したい。こんなはずではなかった。時間を巻き戻して、別の選択肢を選び直せるなら。そうしたリセット・リプレイ願望の原型を、三ツ野氏は、たとえばニーチェが批判した「ルサンチマン」の中に見る。ルサンチマンとは、今ここにある現実に不満を抱き、もう一つの現実を夢見るようなメンタリティである。滝本竜彦超人計画』や本田透喪男の哲学』など、非モテ喪男系を自認する論者たちが、ニーチェ永劫回帰論を参照し、「これが人生だったのか、それならばもう一度」という運命愛=覚悟の意味を論じるのは、偶然ではないだろう。


 これに対し三ツ野氏は、そうしたルサンチマン=リセット・リプレイ願望を批判し、人生とはそのようなリセット可能なものではない、一度くだした決断は取り返しがつかない、美少女ゲームとは、オタクたちの人生の失敗や後悔をゲーム内のすべてのエンディングをコンプリートするような形で癒そうとする装置にすぎない、云々と論じる。


 この批判はもちろん正しい。しかし、同時にこうも思う。確かに人生はやり直しも取り返しもつかない。それなのに、安易で無邪気なゲーム的リアリズムが拡がっている。それは事実である。しかし、問題なのは、人々に無限のリセット・リプレイを欲望させずにいない社会的現実がある、ということなのではないか。それに対して「リセットするな」「リプレイできない現実を思い知れ」と外側から批判するだけでは足りないし、弱いのではないか。リセット・リプレイを望む欲望を、外側からではなく、内側から批判し解除していく作業が不可避なのではないか(例えば『時をかける少女』はそういう試みではなかったか)。


 ところで三ツ野氏は、別のところで、「これが人生だったのか、それならばもう一度」というニーチェの運命愛が、じつはまだまだ「能天気」かもしれない、とも書いている。たとえば鈴木謙介氏の『ウェブ社会の思想』では、「自分が選んできた人生は、こういう結末しかありえなかったものなんだ。けれども、それでいいんだ」という「決定論的宿命論」のメンタリティが、主体のぎりぎりの決断や覚悟を意味するとは限らず、たんに物理的なユビキタス/ウェブ社会(アマゾンのレコメンデーションシステムのように、顧客の履歴から「最適環境」を自動生成していく)によって規定されたものかもしれない、と述べている。宿命論を「仕方ない」と受け入れてしまうことは、社会の側が都合よく望むような主体に自分の人生を切り詰め、他の「ありえたかもしれない」可能性に目を閉ざすことかもしれないのだ、と。