小林よしのり『脱正義論』『戦争論』
小林よしのりのマンガを初めて読んだ(正確に言うと、10年位前にごく初期の『ゴーマニズム宣言』は少しだけ読んでいた)。
◇『脱正義論』(一九九六年六月)
◇『戦争論1』(一九九八年七月)
薬害エイズ運動の経験をマンガ化した『脱正義論』には、率直に驚いた。強く心を動かされた。正直にそう述べておく。ここには何か本質的なものが確実にある。少なくとも、マンガからこれほど強く複雑に心を揺さぶられる経験は、稀有なんじゃないか(私は日々の空気のようにマンガを必要とする人種だが)。腹の底から生じる、いやな気持ちもふくめて。しかもその「揺さぶられる感じ」は、娯楽性と同時に、政治性を含んでいる。複雑な感情としてある。
事実、小林は終始、「普通に生活している人々に届かなければダメだ、本当は社会的事件に関心があるけれど、生活の忙しさで動けない人間こそを動かせなければダメだ」と言い続ける。このことは、小林が、たとえばジャンプ読者のような「子ども」へ向けて、子どもたちの心に届くようにマンガを一貫して描いてきた、という経験からも来ているのだろう(子ども達の人気投票で作品が打ち切りになる、ジャンプ形式)。小林はそのためのマンガ表現の「技術」の獲得に、徹底して、円形脱毛症が出来るくらいに苦しんできた。それをくぐりぬけて、メジャー漫画家の地位を勝ち取ってきた。『脱正義論』でもそれはいかんなく発揮されている。
大澤信亮は、『マンガ・イデオロギー』の連載第一回「小林よしのりのマイン・カンプ」で、「まず認めよう。小林のなかには確実に何かがある」とはっきり述べた。小林の中には被差別部落の人々、薬害エイズ被害者、少数民族や日本兵ら「虐げられた者への眼差し」が脈々とある、そしてそれは小林のマンガの読者が「引き込まれる感じ」とつながっている、と。
小林は自分を「勝者」「メジャー漫画家」「マッチョ」と自認してはばからない。でも、それは「金持」「勝ち組」とは少し違うようだ。「ふつうの生活者」「子ども」へ表現を届けうること、彼らをこそ動かしうること、それを小林は「メジャー」と考えている。そうみえる。「虐げられた者たち」が強いられた現実を、元々社会問題にアンテナを張った運動家たちだけじゃなく、「ふつうの生活者」「子ども」たちに届けること、しかもそんな人々の情を動かすことこそが(注1)、自分に課せられた天命=ミッションだ、と。
小林を肯定するのであれ否定するのであれ、この水位からは引き返せない(注2)。私は、『脱正義論』の中には、「脱正義」ではなく、「正義」の萌芽さえあるんじゃないか、と率直に感じて「しまった」。とくに「あとがきにかえて」には鬼気迫るものがある。
《わしはバカだから情でやった。しかし、たとえテロでムショに入っても商売にできると計算してやっていた。勝てるからやった。言論を暴力として使った。そして原告被害者にも学生にも弁護士にも何人かの面白いやつがいて、つきあってて楽しかった。
ただ学生がいまだに自分らが正義だったと信じ込んでいるのは許せん。原告の大貫さんを早稲田のイベントでシカトしたじゃないか。組織防衛のために、このわしにやったのと同じようにシカトして謝罪すらしなかったじゃないか。大貫くんは今年、亡くなった。心がうずかんか? 正義だけだったと言えるか?
おまえらは厚生省と同じじゃないか。組織に個を融解させたおまえらは、個を主張しすぎる大貫くんという原告を、やっかい者として村八分にしたじゃないか!
おまえらが非難している官僚は、おまえら自身の姿だ。「薬害をなくすために、これからも勉強会をする」だと? そんなおまえらが、将来、確実に薬害を起こすんだよ。
自分のやましさにもしっかり目を向けろ。
厚生省を疑い、弁護士を疑い、原告を疑え。菅直人を疑い、櫻井よし子を疑い、わしを疑え。「ええトシこいて被害者にムチ打つようなスキャンダラスな絵を平然と描いて恥じぬ暴力的漫画家」小林よしのりを特に疑え!
そして自分をきっちり疑え。
信じ込んでいる自分の「正義」から抜け出せ。
今が「脱正義」の時だ!》
しかし、小林のマンガの全てについて、そう思うわけでもない。
『戦争論1』については、今のところ、冷淡な感想しか思い浮かばない。
わずか2年足らずの間に、小林の中に何が生じたのだろう。大澤は「小林はむしろ一貫している」と述べるが、私はここにはやはり決定的な変質がある、とみる。小林自身も書く、「『戦争論』は、戦後の歪んだ言論空間の中で、それと知らずに育った自分との決別の書だ」(『戦争論2』「あとがき 高貴なわたしより」)。
この「決別」の意味を具体的に考えるために、私は、これから、小林のマンガをさらに読み進めるつもりでいる。
しかし例えば、『脱正義論』と『戦争論』の違いは、「個」に関する理解の違いに現れている。小林は薬害エイズ運動に関わる時、一貫して「組織ありきではなく、個の連帯を」と訴えてきた。この場合「個」とは、学生が頭で考える世界市民のような「個人」というより、自力で生活を生き抜く生活者、生活のプロ、といった意味合いが強い。そんな人々が「連帯」することに意味があるのであり、組織自体が自己目的化したら運動は終わりだ、と。ここから小林は、厚生労働省/ミドリ十字/医療分野の組織体質だけでなく、薬害エイズ運動の内側を徐々に侵食する組織体質をも批判する。そして学生達へ向けて言う、「純粋まっすぐ君から脱却せよ/支える会を解散して日常へ復帰しろ!」と(93頁)。
私には、もちろん、事実として「運動」の内部で何が生じたか、小林の言い分がどこまで正しいのかは、わからない(例えば川田龍平氏への小林の嫌悪、しかも醜悪なデフォルメを通して描かれる川田批判、特に78頁)。しかしその上で、小林の生々しい「認識」と激しい息遣いには、ある種の「正しさ」が含まれるように感じられる。それはなんだろう。たぶん、小林はこの「個の連帯」というスタンスに、一貫してこだわってよかったのではないか。呉智英的な「政治」主義が、一体なんだというのだろう。こういう自称リアリストの冷笑が一番ダメで、右も左も上も下も、なし崩しに腐らせるだけだ。しかし『脱正義論』の結論は、「個」の感覚をも「幻想」として投げ捨ててしまう。それがたぶん、『戦争論』の小林が、「個人主義」を戦後民主主義的エゴイズムと一方的に切り捨て、「公=日本国家」に没入しようとしていく、という方向へそのまま流れていく。
「私はここにはやはり決定的な変質があると思う」と述べた。しかしこれは、正確には、『脱正義論』がひらいたかもしれない「正義」のポテンシャルの中にさえ、わずか数年の間に『戦争論』へと転落していく弱さがすでにあった、という意味でもある。その意味では小林は「変わっていない」、たんに自然の必然で熟しただけだ、とも言える。
でも、その弱さとは、何なのだろう。
その辺を考えてみようと思う。(注3)
(注1)「情」について。例えば小林は、運動の「同情ではなく、共感を」というスローガンに異を唱える。「同情でいいじゃないか、情でいいじゃないか」と言い切る。小林の「虐げられた者への眼差し」は、確実にこういう水準にある。小林の怒りは常に真剣だ。本気だ。そして、自分の醜さ・卑しさをふくめ、何かを誤魔化そうとしていない(と同時に、美しく自分をデフォルメした自画像にあらわれているように、自分の尊大さをも隠さない)。「感情は一時的な感傷で終わってしまうから、ダメだ」とは言えない。それを『脱正義論』の持続的格闘が、明白に示している。感情よりも論理が優位にある、という証拠はない。小林批判者は論理実証的に小林の盲点を撃とうとするが、全く有効には思われない。それでは「だが、未だに前作『戦争論』を超える、若者に届く「生きた言葉」を持つ論や作品は、残念ながらサヨク陣営や空想平和主義の側から提出されていない」(『戦争論2』「あとがき」)という小林の強力な自負に、対抗できない(私は『戦争論』が「生きた言葉」だとは思わないが)。真善美のいずれがメタレベルにあるかは、自明ではない。正確にいえば、「情」は、それが貫かれるとき、真善美のいずれをも含み、かつそれらを超えていくものになっていく。
(注2)長くなるけど、大澤の小林批評から引用する。
《小林よしのりに対する批判はことごとく空振りしてきた印象がある。イメージを極度に歪めるディフォルメ、発言の恣意的な引用といった小林の手法に対する批判。南京大虐殺や従軍慰安婦問題についての小林の事実認識に対する実証的な批判。個と公をめぐる小林の国家認識に対する理論的な批判。さらには口汚さや攻撃性といった小林の人格に対する批判。それらの一つ一つが僕にはどうしても意味があると思えない。いやきっと意味はあるのだろう。だが何かに届いていないと感じる。
これらの批判は「小林のマンガがなぜ読者を惹きつけるのか」という文脈とセットで語られることが多い。小林に対する批判は彼の支持者への批判へと向かう。表現はいろいろあっても、それはようするに「小林なんかに説得されるやつはバカだ」という感覚を前提にしている。それをよく表しているのが「マンガだから」という言い回しだ。
マンガだからわかりやすい。わかりやすいからバカが洗脳されてしまう。ゆえに洗脳されたバカを啓蒙しなければならない。これが小林批判の基本モチーフである。論者たちは必死になって、史料を引っ掻き回したり、小林の化けの皮を剥がそうとしたりする。それは地下鉄サリン事件のときに知識人が、人間が空を飛ぶことは物理的に不可能だとか、麻原彰晃がいかに俗物であるかを「実証」しようとした試みによく似ている。
この種の試みは、人がそれを求めてしまう現実自体を批判に晒さないという点で、端的に空振りしている。読者は「マンガだからわかりやすい」という理由で小林に魅かれるのだろうか。違う。たしかに少年マンガという極度に明晰さを要求されるジャンルに晒されてきた小林のロジックはわかりやすい。本稿ではこの「わかりやすさ」についても分析する。だが、それだけでは、マンガで何かを説明する試みが無数にあるなかで、小林よしのりだけが特異なポジションを占めていった謎を理解しきれない。
まず認めよう。小林のなかには確実に何かがある。それはマンガ的な手法や文献の物量的な駆使という擬態を取りつつ、核心において、それらの次元を超えたところで読者に作用する。それを認めない批判は「嫉妬」の一言で無力化されるだろう。》
(注3)たとえば大西巨人『神聖喜劇』のマンガ化を御神体的に有難がっても、全くダメなんじゃないか。これについてはいずれ書く。
【追記】他方で、小林のように作者(個)が前面に出ることなく、匿名的な三人称マンガの体裁をとる(これも先日初めて読んだ)『マンガ嫌韓流』の方が、読後感がずっと「いやな感じ」だった。これはもう徹底していやな感じ。思想がどうの、実証的事実がどうの、ということではないと思う。「まっとうな日本人」と「在日」「左翼」等の絵柄のデフォルメもそうだけど、大騒ぎし怒鳴り散らすのは「韓流」ばかりで、日本人サイドは一貫してフェアで冷静で、「あーあ、しょうがないな…」「やれやれ」って感じ。この圧倒的にいやな感じの不思議さに、ちょっと拘って見たいと思いました。