小林秀雄『感想』の感想

 小林秀雄ベルグソン論『感想』を通読した(新潮社版『全作品』別巻1・2)。
 『感想』は「新潮」1958年5月号から連載が始まり、63年6月号で未完のまま連載を中断、後年小林自身が、家族と新潮社にその刊行を「禁止」している。小林は岡潔との対話「人間の建設」(1965年8月)で、『感想』の連載中断の理由を、ベルグソン論は失敗だった、力尽きてやめてしまった、無学をのりこえられなかった、と説明している。
 しかしこの「禁止」には、ベルグソン理解や無学うんぬんでは割り切れない何かがある。通読し、やはりそう感じた。
 それを今のぼくがうまく言葉にし切れるとは思えない。が、まずノートをまとめてみる。

 断定的にいえば、小林の『感想』は、事実として出版を禁止しただけでなく、その内容の水準でも、他人から「読まれることの禁止」を目指していると思う。もう少し正確に言えば、小林の『感想』は「(書く)私(=小林)」と「読者」の完全な分離=切断を欲望していた。連載開始の時点でその禁止への意志が明晰に掴まれていたわけではなかったように思う。書き次ぐ中でその意図が漸次はっきりしていったのだろう。
 有名な部分だけど、『感想』は「終戦の翌年、母が死んだ」という一文から始まる。
 連載第一回の内容は(小林がベルグソンの思想について述べた言葉をそのまま小林に適用すれば)殆ど「要約不可能」としか言いようがないが、それでも要約すると、母の死は非常にこたえた。それに比べると、戦争は私の精神を動かさなかった。「戦争が進むにつれて、私の心は頑固に戦争から眼を転じて了った」。
 私は自分の哀しみだけを大事にしていた。小林はまずそう率直に心を明かす。その上で、母が死んで数日後の「妙な経験」について記す。これまで誰にも話したくなかったし、話したこともない。ただ「或る童話的経験」という題名で何かを書こうとしたことはある。でもそれも書けなかった。童話としても書けなかった。いま『感想』を始めるにあたって、まずはその経験について書く。こうだ。夕暮れに外へ出ると蛍を見た。それを見て「おっかさんは、今は蛍になっている」とふと思った。それだけの経験だ。またその二ヵ月後、小林は水道橋のプラットフォームから酩酊して転落した。たまたま助かった。その時「私は、黒い石炭殻の上で、外灯で光っている硝子を見ていて、母親が助けてくれた事がはっきりした」。それだけの経験である。微妙なニュアンスを感じ取るためには「要約不可能」な小林の文章を実際読んでもらうしかないが、小林は自分の「童話的経験」の意味について、「反省は、決して経験の核心には近附かぬ」と言い切っている、「科学者」の反省も「心理学者」の反省も同じことだ、と。

 小林の次の言葉には並々ならぬものがある。

 《当時の私はと言えば、確かに自分のものであり、自分に切実だった経験を、事後、どの様にも解釈できず、何事にも応用出来ず、又、意識の何処にも、その生ま生ましい姿で、保存して置く事も出来ず、ただ、どうしようもない経験の反響の裡にいた。それは、言わば、あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろうとでも言っている声の様であった。併し、今も尚、それから逃れているとは思わない。それは、以後、私の書いたものの、少なくとも努力して書いた凡てのものの、私が露には扱う力のなかった真のテーマと言ってもよい。》

 小林のベルグソン論は、この「一」で触れられた「妙な経験」に関しての膨大な、長すぎる註釈にすぎない、と言っていい。小林のベルグソン理解が正確か否かはあまり問題にはならないし、どうでもいい。事実、『感想』のベルグソン解釈はむしろ西田幾多郎善の研究』的な金太郎飴に近く、どこを切り取っても殆ど同じ内容をしか述べていない。平板な叙述が延々連載56回まで続く(中盤のフロイトの夢解釈と、連載中断寸前のハイゼンベルグへの言及で、若干文章に起伏が生じる)。これは別に意地悪な読み方ではない。事実、小林自身が、何度もベルグソンの思想は「要約不可能」だ、と言っている(その意味ではその長大さにおいて「『白痴』についてⅡ」よりも徹底している)。

 小林が凝視するのが、ベルグソンの「遺書」と、著作の「(隠された)巻頭文」であるという事実は、たぶん偶然ではない。
 ベルグソンは1937年2月、死の4年前に遺書を残している。小林はそれを引用する。

 《世人に読んで貰いたいと思った凡てのものは、今日までに既に出版した事を声明する。将来、私の書類其の他のうちに発見される、あらゆる原稿、断片、の公表をここに、はっきりと禁止して置く。私の凡ての講義、授業、講演にして、聴講者のノート、或は私自身のノートの存する限り、その公表を禁ずる。私の書簡の公表も禁止する。J・ラシュリエの場合には、彼の書簡の公表が禁止されていたにも係わらず、学士院図書館の閲覧者の間では、自由な閲覧が許されていた。私の禁止がそういう風に解される事にも反対する。》

 この遺書についての感想を小林はこう記す。

 《随分徹底したものだ。この遺書の、法律上の実効はどういう事になるか、私にははっきりしないが、これが、彼が公表した、彼の最後の思想であると見れば、感慨なきを得ないのである。彼は、「道徳と宗教の二源泉」で、真の遺書を書き終えた、と念を押したかったのであろう。自分の沈黙について、とやかく言ったり、自分の死後、遺稿集の出るのを期待したりする愛読者や、自分の断簡零墨まで漁りたがる考証家に、君達は何もわかっていない、と言って置き度かったのである。一九三二年に、最後の本を書き上げた時、彼は、「諸君、驚くべき事が起った。私のダイモンは沈黙して了った」と言うのを忘れたのである。私は恥かしかった。》

 ベルグソンの遺書の「徹底」した「禁止」に対面して小林が感じているこの「恥かしさ」とはなんだろうか。不思議なひとことだ。唐突な印象を受ける。*1
 別の箇所を見よう。連載32回目のことだが、小林はさらに、ベルグソンが、1910年に「意識の直接的与件論」を『時間と自由意識』という題名で監修し英訳した時、その巻頭に置いたプロチノスの次の言葉を引用している。

 《で、もし、何故自然は産むのか、と自然に質問し、自然が質問を聞いて、口を利いてくれるなら、自然はこう答えるだろう、私に質問してはいけなかった、理解して黙っているべきだった。私自身黙っているように。私には口を利く習慣がないのだから、と。》

 小林はこの巻頭文をずいぶん重く見ていた。小林の感想はこうだ。《ここで言いたいのは、次のような事だ。「理解して黙っているべきだった」とは、彼の全著作の巻頭に隠されていたと言っていい、と》。小林が拘ったのは実際にベルグソンが自著に付した巻頭文というより、ありえたかもしれない巻頭文、「隠されていた」巻頭文である。小林はもちろん何かを拡大して自分に引き付けている。しかし、見えないもの、隠されているものを「蛍」のように見ようとする彼の精神には何が「隠れて」いるのか。
 ベルグソンは自分の手で出版したもの以外を世人が読むことを「徹底」的に禁止した。ベルグソンはこの時、彼自身がものいわぬ「自然」そのもののような自信に満ちている。と、少なくとも小林は読んだ。言うべきことは著書で言い尽くした、それ以上の余計なものを読むな、質問もするな、と。他方でベルグソン論を書き進める小林に、そんな深い確信や自信はない。ベルグソンはそこで(理解したら後は何もいうな)と言っている。小林は書く、「彼の全著作は、一貫して、ごまかしのない彼自身の姿を提供し、これによって読者にも読者自身に還る事を期待する。ベルグソンは、これ以上の事を、何も望みはしなかった」。小林はこの言葉をソクラテスのダイモンにつなぐ、「このダイモンの声は、いつも、何かをしてはならぬという禁止の命令であって、何かをせよと命令したことは決してなかった」、そして言う、「ベルグソンは、物は相談だが、と読者に言う。諸君も、諸君自身のダイモンを捜してはどうか。意識の直接与件は、誰も経験しているが、その厄介な反省は、誰も本能的に避けている。諸君のうちに、諸君のダイモンがいないわけはない。捜さないだけだ。私の著作が、その機縁になれば幸いである。他に、何を望もう」と。

 重みを感ずるのは、以上の小林のベルグソン批評の言葉が、そのまま小林自身の批評の言葉を重く包んでいくからだ。しかもそれは『感想』のみに始まったことではなかった。例えば小林が書き次いだドストエフスキー論のリミットは、(ドストエフスキーが書いた以上のことは書いてはならない)(考えてはならない、見ろ)という「禁止」に小林が突き当るぎりぎりの感覚にあった。しかし『感想』の立場は、これと似ているように見えても、全く逆と言える。少なくとも、小林においてベルグソンドストエフスキーのような「他者」としてはあらわれていない。小林はいわば読者にこう告げるためにベルグソン霊媒的に呼び出したように見える、俺が書いた以上のことは読むな、あとは君自身のことを君で考えろ、と。「諸君も、諸君自身のダイモンを捜してはどうか」「諸君のうちに、諸君のダイモンがいないわけはない。捜さないだけだ。私の著作が、その機縁になれば幸いである。他に、何を望もう」。恐ろしい切断の言葉ではある。これは小林の文章をぼくらが解釈し判断すること、つまり「批評」することそのものの明確な「禁止」と言える。しかしねじれているのは、小林がこの禁止の言葉を最後までソクラテスベルグソンの言葉に託して述べる他になかった点にある。
 この「禁止」は、再び連載第1回の母の死のエピソードに帰還しループする。
 奇妙なポイントで、母を弔う小林の「隠された」言葉が、そのまま小林自身の「隠された」遺書と重なる。重なりかける。こうだ。そこにあるものはたんにあるものだ、人が経験したことはたんに経験したことだ、母の死後の生はたんにそこにあるだけだ、それについて君達は何もいうな――その強力な「禁止」の信念だけが、母の魂の「真の」弔いになりうる。小林はそう考えていなかったろうか。そしてその母の弔いだけが、小林自身の「真の」「遺書」たりうる。それは同時に周囲にこう告げることだから――わたしの死後の生はたんにそこにあるだけだ、それについて君達は何もいうな――と。*2
 だが、そろそろ思い出そう、小林のベルグソン論はそんな最後の言葉=禁止=遺書を書くことに結局は「失敗」したのだ、という事実を。小林はそれを書けなかった、「真のテーマ」にまたもや迫りえず失敗してしまった、と感じた。結果的に小林が禁止したのは、ベルグソンとは正反対だが、テクスト以外の余計な雑文ではなく、『感想』というテクストそのものだった。『感想』の連載は中断し、小林はそれまでに書き次いだ連載部分の刊行を禁止する。テクスト以外を読むな、ではない。テクストをよむな、という。しかも「言わば、あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろう」という「経験」に肉迫を試みたテクスト、「私の書いたものの、少なくとも努力して書いた凡てのものの、私が露には扱う力のなかった真のテーマ」について触れようとしたテクストを、だ。小林は『感想』で彼自身の「最後の思想」をついに語りえなかった。その後の『本居宣長』その他ではどうだったろうか。いや、それはまた別の場で問おう。

 とすれば――小林が生前に公開をはっきり禁止した『感想』という本をいまぼくらが実際に「読んでしまっている」という経験の意味は、なんだろうか。今『感想』を読み終えたぼくらの手元に残るのは小林の不思議な「禁止」の意志だけだ。そこにひそむ「恥かしさ」だけだ。本来それは「届く」はずのないもの、いや届いてはいけないもの、小林が届くことを禁止したものだった。問いは何重にもねじれている。

*1:『感想』が出版されたばかりの当時、『新潮』だったろうか、この「恥かしさ」をめぐる対談か鼎談が行われた記憶が漠然とあるのだけれど、どういう内容だったろうか。手元にないのだが、山城むつみの「連続するコラム」でも『感想』を扱った回があったと思う。これもどんな内容だったろうか。

*2:小林は『感想』でやはり、戦争の死者たちの痛切な無念を考えていたのかも知れない。柳田國男折口信夫のような日本人の固有信仰に訴えるやりかたとは別のやりかたで、批評家としてのやり方で。