「左」の凄みについて――小林よしのりと大塚英志

 【一部、言葉を追加しました。15日。】
 男性弱者?系のエントリーについて、大体書き終えたのだけど、ブログへのアップに躊躇している。ほかの人なら2行で書けるのを、すごく長くうねうねと書いただけのものなんだけど。しばらく寝かせましょう。私は今まで、人の「情」「情念」を喚起し時に逆撫でにする領域に、もう一歩踏みこんでこなかった気がする。対象だけではない。表現技術、文体のレベルでも。


 先日、小林よしのり『脱正義論』についてのエントリーを書いたが、何人かから「小林は一貫していると思う、他の本も読んでみて」「『わしズム』の最新号は面白い」というコメントをもらった。早速買った。読み始めた。
 http://www.bk1.co.jp/product/2701135
 座談会「超・戦争論」、こうの史代のマンガ「古い女」*1、小林の「『戦争論』以後の愛国心について」*2、それぞれ凄かった。
 この雑誌の異様なテンションはなんだろう。
 小林氏との対立=論戦から引き出されたのかもしれないけど、大塚英志氏の見せた「覚悟」も凄かった。
 彼の最近の仕事をていねいに追ってはいないのだけど、またあれこれ疑問点もあるのだけど(一部は『エンタクシー』で書いた)、こんな場所まで彼は行っていたんだ、と思った。


 以下、長くなるけど引用する。

 小林 なるほど。つまり大塚さんは、あの憲法に書かれた理念をリスクを負って本気で引き受けようというわけね。いいよ、わしはそれを選択してみても。非武装で、徹底的に言葉だけでやってみよう。ただし、それをやるには恐るべき覚悟がいるよ。
 (略)
 大塚 でも、安全保障論はつきつめれば、自ら武装するか、非武装中立論しか論理的な帰結はないんです。アメリカに頼らず自前の軍隊を持つのか、あるいは非武装中立でやっていくのかということが対立軸になったときに、はじめて、9条のあり方についてまっとうな議論ができる。その一方の極である非武装中立論を明快に打ち出しておかなければ、9条に関するまともな議論もできないままに、「現状を考えればアメリカの後をついていくしかない」という考えが改憲論の主流になってしまう。
 小林 それは逆だと思うんだよ。ようするに非武装中立というのにまったく説得力がない。はたしてどういうふうに説得力を持たせることができるのか。みんな結局は怖いわけよ。チベットがほんとに貧弱な武力しか持っていなかったから、結局中国から侵略されて、民族浄化されているという状態があるわけで。台湾があれだけ交渉しよう交渉しようと必死で言葉による解決をめざそうとするのに、やっぱり中国は、ミサイルで威嚇したりして武力で統一したがる。統一されてしまって、台湾海峡が封鎖されたらどうなるか。あそこは日本の生命線だから、わしは中国との交渉を始めなければならないと思って、単に反中を叫ぶ保守連中とは違って、中国人とも話しあおうとしている。でもなかなか言葉が通じないんだ。
 大塚 でもそういう中であえて中国の人とだって話そうとした小林さんは、言葉の力を信じているんでしょ。
 小林 そりゃそうだ。
 大塚 そうでしょ。そこのところが実は非武装中立論の一番、大切な部分で、言葉を信じるか、武器を信じるかという議論が価値観の対立軸になかったら、「攻めてきたらどうしよう」という議論の中でなし崩し的に現状追認するしかなくなる。
 鈴木 (略)しかし言葉だけでやっていくのは、かなりシンドイですよ。軍隊がなくなったら日本はやっていけなくなるんじゃないかという不安は、なかなか取り除けない。僕自身は、その不安を取り除けるほどの性善説には立てないな。国民一人一人にその覚悟を強制できますか?
 大塚 でもこの国が現在の憲法を選択している以上、論理的な帰結としてはそのリスクを背負うべきだと思いますよ。リスクを背負う価値はある。
 小林 なるほど。リスクを伴った非武装中立論というものを、わしはここで初めて聞きましたよ。その言い方ならば、かなりわしは評価するね。一方で核兵器まで持たなくても、そこそこの軍隊を持って何としても独立し、絶対に他国を侵略しない。そういう選択も、あり得ると思う。
 富岡 その場合、核を持ってたほうが有効じゃないですか。
 大塚 非武装中立の対極として、もう一方に、徹底的な武装論がないと対峙できません。武装論は突きつめていけば一億総皆兵と核武装に行くしかないはずです。

 「左」の凄み。その一端に触れた気がした。*3
 大塚氏の覚悟は、確かに(座談会で富岡氏も触れているが)敗戦後の保田與重郎の『絶対平和論』を思い出させる*4。しかし、プロの書き手として、経済的自立を一貫して大事と考える大塚氏による「戦後憲法絶対平和論」は、農地などの「相続」を前提に絶対平和を述べた保田よりも、さらにラディカルなものになりうるのかもしれない。事実大塚氏は、「それ(非武装中立論)は2000年ぐらいかけて人間改造を果たした後にようやく実現する話です」と恐るべきことも述べて、他の座談会参加者を呆れ?させている。



*1:「古い女」として生きることに全く疑いを持たない一人の女性の人生を不気味に描く、彼女は私なら「古い夫」を「いつか来る戦争」に「行ってらっしゃい」と喜んで送り出せる、と笑う――ちなみにひきこもりになった弟も「古い男」として夫と並列に並べられ、またこのマンガ全体が新聞のチラシの裏側に書かれたマンガというシカケを施されている。

*2:徹底的な「日本」の自立を述べ、左翼のみならず親米保守をも平等に批判し、仮に戦争になったら「日本の若者に、いや…」「その時はじじいながら、このわしも銃を取って(日本人の美意識を)守らねばならんだろう。戦争を知らない団塊の世代のじじいたちよ!最も人口の多い世代の者たちよ!わしと共にその時は戦場に死にに行こうじゃないか!」とアジる小林は、自然に、中江兆民『三酔人経綸問答』の「豪傑君」の、国内の不平不満層の暴発を回避するには、かれらを外国侵略に駆り出す他にない、しかも自分を含め30代以上の旧世代をこそ駆り出すべきだ、という「提案」を思い出させた。

*3:大澤信亮は書く、「だが、それ以上に不審に思うのは、反戦を主張する側の言葉の弱さである。かつて僕が学んだ「左の言葉」には、半端な参戦論を叩き潰す過激さがあった。反戦に限らない。それらの言葉には、閉塞した現実を直向に批評する、泥臭い野蛮さがあった。そういう「左の言葉」はどこに行ってしまったのか」(「小林よしのりのマイン・カンプ」)。

*4:山城むつみ氏の「連続するコラム」で『絶対平和論』を論じた回があり、山城氏は(中野重治的な「左」を通過した眼で)非常にクリティカルな意見を述べているのだが、いま手元にない。