スピルバーグ『ミュンヘン』と、おいしく食べることと、平和と

 スピルバーグ監督『ミュンヘン』をDVDで見た。*1

ミュンヘン スペシャル・エディション [DVD]

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 不気味なほど淡々としている。重厚。
 スピルバーグらしい?「虐殺の享楽」も、『ミュンヘン』ではやや影を潜めている。もちろん、断片的にフラッシュバックするイスラエル人選手11名の殺戮シーン、また奇妙なエロティシズムを湛えたオランダ人女性の殺害のシーンなどには、いつもの、暴力の生々しさの気配が充溢しているのだけれど、たとえば『プライベートライアン』『宇宙戦争』などの、延々と続く過剰な暴力描写は、『ミュンヘン』では抑制気味になっている(暴力のシーンに性描写がはっきりと絡められるのは、スピルバーグにしては珍しい気がした)。
 『シンドラーのリスト』等でナチズムによる虐殺の純粋被害者としてユダヤ人を描いた一方で、『ミュンヘン』では、イスラエルパレスチナ間の「虐殺・テロの連鎖」を主題化し、ユダヤ人も無垢ではありえない、という前提から明確に映画を始める辺りは、さすが「ヒューマニスト」のスピルバーグ、ということなのだろうか。それをいえば、『宇宙戦争』では、宇宙人による人類の徹底的な(反撃や抵抗の可能性が全くない)虐殺を、アメリカ軍による空爆その他に重ね合わせていたのだから、その時すでにアメリカ・イスラエルによる圧倒的な暴力のことは、はっきりとスピルバーグの中で主題化されていたのかもしれない。
 工作員リーダーのエリック・バナは、テロを繰り返すに連れて「イスラエルの大儀」への疑いを強めていき、最後の方で「こんなことを繰り返しても報復の連鎖は終らない」と、これもヒューマニストらしく?口にする。
 でも、その言葉に確信があるかといえば、それも少し違う。暴力のインフレに加担する・させられる人のロジックは、「そんなことはとうにわかっている、でも仲間=同胞の被害を最小限に食い止めたいなら、敵を一人でも多く殺し続けるしかない」という真剣な祈りであるかもしれないから。
 そんな認識が、映画全体を、あたかもいつものスピルバーグ的享楽をさえ許さないかのように、重苦しく染めている。


 そんなエリック・バナにとっては、「平和」のイメージは、「いっしょに料理をして、いっしょに食べ物を食べる」こと、にこめられているように見えた。それさえ、ぎりぎりのところで、消極的なイメージのようではあるのだけれど。事実、主人公は料理が得意で、工作員の皆にも常に食べ物をふるまうし、よい「キッチン」がよい「ホーム(故郷、家族)」のシンボルになっている。政府への加担を拒む情報家の「パパ」も大家族で、どうも家族内では深刻な反目もあるらしいのだけれど、なんとか一緒にご飯を食べる、料理を楽しむことは、維持できているようだ。そのことによって家族でいられているようだ。「パパ」は、いっしょに料理をつくることで初対面のエリック・バナを信頼するのだし、テロ工作を終え家族のもとに戻ったエリック・バナが、今度は逆に自分たちの情報を流されテロの対象にされるのではないか、と疑った時、「パパ」は、おいしい本物のソーセージを送るよ、私を信用してくれ、と電話口で最後に呟く。
 案外人々は、話し合いや対話ではなく、おいしいものを一緒に食べる、食べながら話すことによってなんとかほどほどにやっていけるのかもしれない、そしてそれがかろうじて「平和」なのかもしれない――、とでもいうように。
 最後のシーンで、エリック・バナは、パレスチナ人の殺害を断固貫こうとするイスラエルの上官を、家族の食事に誘う、しかし男はそれを断る。エリック・バナは「イスラエル」の大儀にも没入できず、むしろ拒まれ、疲れた顔で家族のもとへ帰る(そこには、最後に家族が出会えたとしても、『宇宙戦争』ほどの救いもない)。


 ……アジアとアメリカの間で、そして他の国々との複雑な関係の中で、現在の「日本」が置かれた状況を少しだけ思いながら、映画を見ていた。明日の美味しい(?かもしれない)ご飯のことと、どっちが今の自分にとって重いのかは、よくわからないのだけれど。

*1:ストーリーは引用で紹介。「1972年のミュンヘン五輪パレスチナ人ゲリラが11人のイスラエル選手を人質にとる。結局、人質は全員死亡。スピルバーグ監督が歴史の暗部を直視した本作は、その後、イスラエル側による報復作戦にフォーカスが当てられている。暗殺グループとして組織された5人の工作員が、事件に関与したとされるパレスチナの重要人物を標的に、ヨーロッパ各国で暗躍。次々と彼らを暗殺していく。スピルバーグの視点は、あくまでもニュートラルな立場を貫き、イスラエルパレスチナのどちらかに肩入れすることはない。実際のニュース映像も挿入した五輪の事件や、前半の暗殺シーンは、徹底してリアルで、ときには過剰なまでのグロテスクな描写もある。中盤からは、立場が変わって命を狙われる工作員の心理ドラマが観る者を圧倒。報復の虚しさが伝わる展開になっている。工作員のリーダーを演じるエリック・バナが、その葛藤を全身全霊で体現。ラストシーンはニューヨークなのだが、その風景に追加された「あるもの」の映像もまた、終わらない報復の悲劇を訴えているようだ。(斉藤博昭)」。