「死刑存置論者よ、殺すというなら自分の手で殺せ」と「死刑廃止論者よ、出獄してきた凶悪殺人犯の隣に住んでみよ」



 mojimojiさんの以下の問いかけは、一見極端に見えるけれども、とても重要に思われた。


 《【1】僕は、死刑に賛成する人には、その人自身が執行人になるということまで含めて賛成してもらいたいと思うと同時に、【2】死刑のみならず終身刑をはじめとして死刑以下のさまざまな刑罰についても反対し、つまりは被告人を再び社会の中で自由に行動させるところまで含めて認めたい人には、その人自身が被告人の隣人となるということまで含めて賛成してもらいたいと思う。【3】もちろん、自分ひとりについてなら、この問いに簡単にイエスと答える人はいるだろう。だから、上記の問いにイエスと答えられた人は、それを自分以外のすべての人に要求することまで含めてイエスというのだ、というところまでハッキリと明言してもらいたい。》(「死刑と終身刑についての追記」、http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080425/p2。番号は杉田。)


 何度も言うけど、「第三者」と「犯罪被害の当事者」は立場が違う。ぜんぜん違う。共同の情念と個人の感情の安易な一体化は避けるべきだ(さらに言えば、特に性犯罪被害などの場合、被害者とその家族の間にも深刻な違いが生まれる*1)。
 だからたとえ、ある人(第三者)が今ここで「自分が家族を無意味に殺されたら、犯人を絶対に殺す」とはっきり宣言したとしても、それが本当かどうかはその時にならないとわからない。けれども、何年過ぎようが憎くて仕方ない、殺したい、と言い続ける遺族たちは現にいる。そして十分な機会(チャンス)さえ与えられれば、本当に殺しそうに思う。殺す、と言いながら、その場になれば殺せない人、殺さない人もいるだろう。でも、殺す人もいるだろう。事実、銃社会アメリカなどではそういうケースがある。日本ではそういうケースが無いのは*2、加害者と被害者を取り巻く法的・社会的状況のために、物理的に復讐するチャンスがほとんどないからだ*3
 もちろん、死刑制度の是非云々というより、刑事司法のあり方/被害者とその遺族の回復支援/経済的支援などの、具体的な支援状況の改善と構築が何より大切ではあるだろう。事件の後の生活、「その後の生活」があるのだ。十分な支援が無い状態で、極端な「問い」だけが、よりによって被害者遺族にも投げつけられている。「被害者遺族と死刑制度を自動的に結びつけ、当人に死刑制度の是非を聞くこと」自体が、とても暴力的かもしれないのだ*4。時として被害者や遺族が望むのは、必ずしも死刑云々ではなく、あまりにも低い日本の量刑の改善なのである。
 しかし、それでも、赦せなさという問題はやはり残る。*5
 そしてぼく個人は、自らが手を汚す決意を伴う復讐の意味を、今のところ否定できない*6。「どんな生も生かされてよい」「殺してはならない」とは思えない。そう書いた。


 「その人自身が被告人の隣人となるということまで含めて〔死刑制度に〕賛成してもらいたいと思う」。これに躊躇なく「イエス」と言い切るのは、やはりなかなか難しい。いや、ことが自分ひとりの話なら、まだ難しくはないかもしれない。けれども、家族や子どもの安全が脅かされるかもしれないとすれば――。


 では永遠の隔離ならいいのか。しかしぼくには、正直、死刑と絶対的終身刑の違いは、よくわからない*7。死刑より終身刑の方が重い、残酷だ、という人もいる(犯人を憎むゆえに死刑ではなく終身刑を望む、という人もいる)。死刑があるからこそ真に反省できる、という人もいる。もちろん、死刑では人は死に、終身刑では死なない。その点で二つは絶対に違う。それはそうではある。でも、「こちら側」にいる人にとっては、それは殆ど「同じ」ではないか。だって、その人が変わる、社会の中で生きられるような人間になる、と基本的には信じていないんだから。絶対的な隔離とは、社会的には「死」である(障害者運動の脱入所施設の精神を、ぼくは思い出している)。ここでは、自分・家族・社会の「安全」「秩序」だけが問われているのではない。この立場からは、必要なのは「窓を設けること」ではなく「扉を設けること」ではないか。素朴に、そう思う。ならば、ここで賭けられているのは、隣人・他者に対するミニマムな信頼・信用なのだろう。「死刑廃止論者よ、今からでも遅くはない。出獄してきた凶悪殺人犯の隣に住んでみよ」「出獄した凶悪犯罪者の隣に住め」(小谷野敦http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080427)という問いは、たぶん、そういう身近なところにまで伸びている。


 今まで日本の死刑判決を左右してきたのは、最高裁判決のいわゆる「永山則夫基準」である。そこでは「犯罪の結果の重大性」と「矯正の可能性」が秤にかけられる。死刑は生命自体を奪い去る冷酷な刑であり、「やむを得ない場合」――重大な犯罪を犯し、かつ、人格的に矯正不可能な場合――のみ適用される、とされた*8。結果の重大性は主に被害者の人数で測られる。矯正の可能性は、年齢が大きく左右する。ちなみに少年司法の問題はここに(も)ある。
 裁判の場では、死刑判決に際し被告の「生まれつきの人格」「更生不可能」が言われる。「絶対悪」がいるのかどうか。ここはわからない。本当に難しい。たとえば宅間守の弁護人だった戸谷茂樹は、死刑の判決文によくある「被告人は生来下劣であって」「生まれついて」などというフレーズを「許しがたい」「このヤロウって思います」と批判している。どうしてお前らにそんなことがわかるんだ、と。しかしその戸谷ですら、宅間の弁護の過程で、深く逡巡しながらも「……私はもともと、死刑を廃止すべきだと考えていました。でも今回のケースでは、あってもいいのかなという気がしないでもない。今はペンディングです」と答えるまでに自分を変えている。取材で戸谷の言葉を聞いた森達也は、その変化を「意外」に思い、驚く*9
 人は変わりうるのか。どんな人間でも本当に心から反省し、謝罪と贖罪を行い、罪を償えるのか(被害者・遺族に対して)。その上で、再びこの社会の中でやり直せるように変われるのか(社会・コミュニティに対して)。そしてぼくら(第三者)は、それらを深く信じられるかどうか。さらに自分ひとりの信念表明だけじゃなく、家族や身の回りの人々とも、そのことを議論し、納得し、分かち合えるかどうか。
 正直、疑念はある。ぼくなりに、べつに「凶悪犯罪者」ではないけれども、他人に暴力を振るい続けて変わらない人、絶対に懲りない人、そういう人を見てきたから。またぼくの中にも、ある種の傾向があり続けているから。しかし――。
 「どんな人にでも人権がある」と言っているのではない。その人が変わるとは、本当をいえば、「絶対に暴力に手を染めず絶対に誰のことも殺さない人になる」ことを必ずしも必要としないと思う。というか、そんな人はいない。またやるかもしれない。その偶有性を消さずに、でもミニマムに信じる。本当は、加害者でなくても同じなのだ。だって、ぼくやあなただって、いつか誰かを殺すかもしれないのだから。その可能性は消えない。何を言われても、あの人は嫌だ。怖い。犯罪をゆるせない。それらの感情は否定できないし、否定する必要もないと思う。だとしても、絶対的な社会的排除や隔離はしないでおく。国家の応報刑や被害者への贖罪は必要だけれども、その後は、可能性として「扉」を開けておく(被害者や当事者抜きの「矯正」「更正」ではダメだけれど)。「またやるに違いない(としか思えない)人」を、少なくとも、ただたんに「またやるかもしれない人」として、ミニマムに信用すること。相手が「変わろうとしている」ことを信じること。そこから、可能な限りの「隣人」の意味を考えてみたい。これはべつに非日常的な話ではないと思う。


 ただし、これらを、一部の個人の覚悟やリスクの問題だけにするのも、おかしい。たとえば野宿者支援をする人に、「だったらお前らが野宿者に家を貸し生活費を与えろ」という悪意ある嘲笑が寄せられることがある。支援者の多くはすでに一定の労苦や贈与を避けていないのだから、第三者にとやかく言われる筋合いはない。その上で、問いを当事者・支援者だけの関係性に閉じるべきではない。社会的・公共的な領域に広げることだ*10。「出獄した凶悪犯罪者の隣に住め」というのも、言いっ放しにするだけで、たとえば公的な更正プログラムや加害者臨床などを拡大し増築することを考慮しないなら、たんに自己責任論(文句があるならお前らが勝手に責任を取れ)で相手を切って捨てて、共同体内部の「自分たち」の責任や義務だけは免罪することでしかない。
 たとえば、新しく地域に障害者施設が建築されるとき、今でも少なからず地域住民の反対運動が起こる。不安だ。怖い。子どもに何かあったらどうするの。依然としてそれはある。これに対し、必要なのは「絶対に安全です、私達を信じて下さい」という断定ではない。統計データを示して「ほら、安全でしょ」と説得することでもない。それらは必要だけれども、それ「だけ」ではない。だって、摩擦や軋轢、トラブルや暴力が生じるかもしれないのだから。未来のは不確定だから。ならば、本当なら、トラブルは起こるし誰かが傷つくかもしれないけど、その上で、信頼を創っていくと約束します、としか言えないのだ――もちろん、よほど信頼関係が築かれた後でなければ、そんなことは言えないけど。


 いや。他人が変わるだけではない。自分の中に、新しい感情や関係が懐胎され、産まれるのを信じることだ*11。本村洋さんの中に生じた微細な変化も、そういう「新しい感情」ではないか。逆に、戸谷さんの例もあった。そして、顕微鏡的に見つめればこれらは必ずしも「対立」していないのである。
 ぼくはこれらの潜在的な可能性(「被害者への二者関係的な謝罪と贖罪」+「コミュニティへの更正とリハビリ」を行いうる人間に「変わる」こと)が、死刑制度の是非よりも――いっそ具体的な赦しや贖罪よりも――大切かもしれない、と思っている。*12
 苦しみと葛藤を深め、生きることを深めること。その可能性を排除・隔離しないでおく。いわゆるリベラリズムは、人々の価値観や文化の多様さに対する「寛容」を主張しつつ、形式的な「残酷さ」だけは絶対的に排除してしまう*13。だから「非人間」だけは絶対的に排除される。これに対し、むしろ自他の中の「根源悪」の可能性=欲望を見つめていきたい。対立や敵対の可能性をどこかで残しておきたい。結局、ぼくはずいぶん人文的でナイーヴなことしか述べられていない。自分でも恥ずかしい。そしてそれはたぶん、思想としての寛容ですらなく、その前提にあるもの、荒唐無稽に見えて実はありふれた感覚に関わるだろう。
 そんなの無理だ。多くの人はそう思う気はする。ぼくにもとうてい無理っぽい。逃げるし、避けるだろう。でも。でも。ぼくらが。変わりうるならば。自分を信じうるならば。
 たぶん、そういうこともまた、問い直されている。引き続き、考えてみる。


死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う


*1:http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080512参照。ぼくもこの記事を読んで、自分が「被害者」と「被害者遺族」の間に時に生じる対立をちゃんと見ていなかった、と知った。情けないよ。

*2:事実誤認なら訂正します。

*3:他方でたとえばDV加害者の夫が被害者の妻を追跡し、暴行もしくは殺害する事件は起こっている。信田さよ子『加害者は変われるか?』参照。

*4:藤井誠二『殺された側の論理』1章参照。

*5:同じくhttp://d.hatena.ne.jp/font-da/20080512によると、日本の被害者学の中心的存在のひとりである諸澤英道の「被害者感情を好転させる要因・悪化させる要因」(『現代のエスプリ』1995年7月号)という論文では、重傷を負わされた被害者よりも、むしろその家族のほうが加害者への怒りが持続する傾向がある、と報告されている。

*6:笠井潔『国家民営化論』では、司法の民営化を前提に、被害者遺族の犯人への「決闘権」が主張されている。

*7:よくある「(絶対的)終身刑」と「無期懲役」に関する誤解。しばしば、テレビなどでコメンテーターが「日本の無期懲役では一五年程度で仮釈放になる」「早ければ七、八年で社会に出てくる」等と言っているのを見聞きする。しかし、これはあくまで制度上のことであり、実際にはそんなに早く仮釈放される人は、ほとんどいない(『矯正統計年報』)。諸外国には終身刑があるが日本にはない、という意見もよく聞くが、多くの外国の終身刑には仮釈放がある(相対的終身刑)。その点では、日本の無期懲役と変わらない。無期懲役は、誤解されているほど「軽い」刑ではない。また近年は、仮釈放までの期間が非常に長くなる傾向にある。

*8:たとえば芹沢一也「〈生への配慮〉が枯渇した社会」『思想地図』vol.1、参照。

*9:森達也『死刑』第三章参照。

*10:犯罪やDV加害者への民間支援団体もしくは行政による更正プログラムの存在については、先の記事参照http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20080520/p1

*11:修復的正義の「修復」の意味も、この辺りに関わるのだろうか。

*12:正直に言う。遺族の報復、殺すことを否定できない、と言った。しかし、報復の是非に限らず、「殺したい」という人の欲望を絶対的に悪いこと、とすら言い切れないのだ。欲望の複数性を肯定する、とは実はそういうことではないか。そこにすらミニマムな「よさ」がある、と。やはり「欲望の複数性」を主張するのは、ほんとは怖いことなのだ。ぼくはそれもまた「感情」を超える「摂理」だ、とどこかで思っているらしい。具体的な関係の中でそういう瞬間が訪れることはある、と。そして、もし「隣人愛」が言われるとしたら、このあたりを深くくぐらねばならないだろう、とも思う。

*13:「思想系」で言えば宮台真司のリベラルにせよ東浩紀のサイバーリバタリアニズムにせよ。