「仕事」(ワークス)の重層性

 ・・手元に、知的障害者の共同作業所Hの人々が作成した手書きの意見書がある。
 かれらは「仲間自治会」を(職員のサポートのもと)自主的に運営し、グランドデザイン・自立支援法を勉強し、今後の生活について議論してきたという。
 面白いのは、彼らが、自分達の現在の《共同作業所》のあり方が、グランドデザインの「新体系」(生活介護事業/就労移行支援事業/就労継続支援事業(雇用型)/就労継続支援事業(非雇用型)/地域活動支援センター)のいずれにも当てはまらず、かついずれの要素をも含んでいる、と明確に書くこと。


 《私たちは、仕事をしに、Hに通っています。
 みんなに作業所に何をしに来ているのか聞いたら、「仕事」と言いました。仕事と言うのは、
(1)工賃をもらうこと
(2)自分たちで作ったせい品を町に出て、販売をする。そして、地域の人とたくさん話をします。
(3)仕事の技能が上達すること
(4)共に働く仲間を多く作る
 この四つのことが出ました。私たちの願いは、いくつになっても健康で仕事をしたいということです。いろんな仲間と一緒に、この仕事を続けられる作業所でいたいです。》


 かれらにとって(当然だけど)「仕事」は「賃金を稼ぐこと」が全てではない。もちろんそれが主の人がいてもいい。でも、「仕事」(ワークス)は、生活に必要な賃金を稼ぐ(labor)だけでなく、地域の商店街などの人々との交流、スキルの習得とエンパワメント(work)、協同の仲間をひろげる活動(action)、等の要素を持ち、かつそれらが重層的に重なり合っている*1。うえの「仲間」の言葉はそのシンプルな事実を思い起こさせる。
 これを雇用面だけで切り取り、現にある作業所の総体をケーキのように切りわけ、「仲間」をその雇用面の能力だけに応じてカッテにそれぞれの通所先へバラバラに配置すること、への抵抗がある。積み上げ、編み上げてきた生活の厚みがまずはベースにあり、それを制度先行で無思慮に切り刻まれる事実への率直なゆるせなさの感覚がある。告発調ではなく、淡々とした言葉だけれど。

*1:ハンナ・アレントの有名な分類を引こう。《労働laborとは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。/仕事workとは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、全ての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。/活動actionとは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。たしかに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。しかしこの多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である》(『人間の条件』)。重要なのは、これらの要素が分離しつつもわかちがたく結びつく側面、ベーシックな「仕事」の総合性の水準を同時に掴むことではないか。