藤田直哉氏『虚構内存在』の「キャラクターリブ」の件



 藤田直哉氏の『虚構内存在』の内容については、「すばる」に書評を書かせて頂いたので、また報告しますが、『虚構内存在』の193頁前後で(批判的に)言及されている「キャラクターリブ」に関して、参考資料として、関連する箇所を再掲しておきます。


 【再掲】「社会運動2・0への想像力――批評・労働・キャラクターリブ」(『未来回路』2.0、2010年)


杉田 (略)僕が今ぼんやり考えているのは、キャラクター的なものの中に生命や他者性を実感するとは、どういうことか、っていうこと。ウーマンリブやアニマルリブの延長上にあるものとしての「キャラクターリブ」、と言いますか……。


杉田 ピーター・シンガーが『動物の解放』で、公民権運動や女性運動の延長上に、動物倫理の話を持ちだしますね。黒人や女性の権利を主張するだけでは、動物たちへの種差別は解消されない、と。しかしその先には、明らかに、非生命の話が出て来ている。「公民権運動を完遂するには動物倫理を考えるしかない」と言ったシンガーにならえば、「マイノリティ問題や動物倫理を完遂するには、非生命への倫理を考えるしかない」と言えるのかもしれない。これは自然や生態系を重視するエコロジー系の環境倫理の話とはまた異なる文脈の話になります。たとえばロボットとのセックス倫理の哲学的研究はすでに始まっていますが、まだまだ未踏の領域。「キャラクター」は、「自然」へのインターフェイスになるのかもしれませんね。それで言えば、キャラクターは2次元の非実在だからどんな暴力をふるっても構わない、という感覚は、たぶん何かが違う。


杉田 暴力の形式の一つは、他者を非人格化することだと思うんです。ただし、他人の人格を完全に非人格化することは不可能であり、だからこそ、暴力は無限に強迫反復されるし、インフレ化したり嗜癖化していく。そしてこの感覚は、やがて、自分の身体へも折り返されてくる。「キャラクターから見られている」って、そうした身体レベルの変容じゃないかな。
 その感覚を拡張していくと、萌え絵やキャラクターだけじゃなく、世の中の様々な非生命の中にアニマやアウラを感受しうるのかもしれない。それは美的かつ倫理的な問題だと思うんです。東浩紀さんが大塚英志さんの議論を参照して、日本のオタク的想像力の特徴は、2次元の記号的身体の中に3次元的な身体性や性を実感することだ、って言っているんだけど、僕は逆の過程もあって、むしろ3次元の人間に対して2次元的に振舞っていくことの欲望のねじれがあると思うんです。コスプレ文化とか、恋人にメイド服やセーラー服を着せたがるとか。女性たちの側でも、その欲望を受け止めて、自分を男性から承認されやすい衣装や身体へとチューニングしていく、というような、複雑でジグザグな欲望のサーキットがあるはずです。
 その点では、「ポルノは教科書、現実のレイプはその実践だ」というラディカルフェミニズムのポルノ批判は、ちょっと物足りない。人間の欲望のポテンシャルを、僕らはもっと繊細に読み込んでいくことができるのではないか。