『サイタマノラッパー3』映画評

 【再掲】「歌」よ、鳴り止め――入江悠『サイタマノラッパー3 ロードサイドの逃亡者』映画評(『映画芸術』439号)


 近年、「郊外」は、グローバリゼーションの中の「日本」を象徴するスポットとみなされている。一九九〇年代半ば以降の社会学などでは、犯罪の温床/均一性/殺伐さなどが強調され、二〇一〇年代は、ショッピングモール的/多幸的/消費者天国的な郊外イメージが強調されている。これらに対し、入江悠富田克也らの映画が我々の網膜に焼き付けるのは、階級/世代/外国/地方などの、この国の様々な矛盾の凝縮点=ホットスポットとしての郊外である。だがその描き方は様々だ。
 富田の『サウダーヂ』には、甲府全体を俯瞰するスケールの大きさがあるが、入江の『SR』のポイントは「半径1メートル」というその「狭さ」にある。だが入江は、その狭さと引き換えに、冨田の映画(『雲の上』も『国境20号線』も)が未だ捉えられない光景を、確かに掴んだ。たとえば『SR1』のラストシーン、定食屋でトムとイックが響かせ合う「歌」は、絶望と悲哀と疲れと滑稽と笑いが絡み合ったもので、本当に凄い。そこにあったのは、地元コミュニティへの安心感や郷愁ではない。「俺はここにいる」というハッタリでもない。どん底にいる目の前の他者(君)を立ち上がらせられないなら、この俺も永久に立ち上がれない――彼らの「歌」が本物の「歌」であるための絶対的な原則だった。
 ならば、その先でさらに問うべきは、北関東的な郊外を、かつての土本典昭水俣小川紳介三里塚・牧野、布川徹郎の「国境」に匹敵し、かつ、現在的環境のもとでそれを若々しく更新するものとして描けるか、である。
 本作では、埼玉のSHO-GUNGを見限ったマイティは、サクセスを夢見て、東京へ進出している。だがマイティは、東京でも栃木でも「ホモソーシャルな暴力集団のパシリ」のポジションを抜け出せない。その無限ループは、確かに悲惨で滑稽で無様だ。だがこの映画では、暴力集団の人々が、イメージ通りの悪にしか描かれない。マイティらはバカだが善良な被害者であり、悪いのは常に、自分たち以外の誰かだ。風景も精神も全てを同じ色に染めていくこの被害者意識はなんだろう。等々力や紀夫から受けた暴力を下っ端の少年たちに晴らすところも、暴力の悪循環に本気で苦しむ人間を強いる、失語や強制力のモメントがない。
 入江は、SHO-GUNGの側にいるつもりが等々力や紀夫や極悪鳥の側に立ってしまっている、という怖さに、十分に向き合えていない。紀夫らにインチキオーディションの余興でMCバトルを強いられ、イックがそれに沈黙で抗議し、やがて怒りを壇上の胴元らへと向け直し、会場側の若者たちが共鳴=連合して戦っていく――このシーンには(栃木祭りやラストよりも)監督である入江自身をも突き放す何かがある。
 だがこの時、紀夫やチンピラ少年たちが凡庸なイメージ通りの悪ではなく、彼ら自身の真剣な再反撃の歌を胸に秘めた立体的存在として描かれていたら、どうだったのか。或いは、埼玉で農家を続けるマイティの母親の影が、何度か出てくる。しかし、彼女たちの「郊外」からの「歌」が(小川紳介『辺田部落』の農民たちや土本典昭水俣』終盤の患者さんたちの御霊歌に匹敵する力強さで)映画中に響くことは、遂にない。本当に黙って苦難に耐えているのは「誰」なのか。必要なのは、むしろ、どう足掻いてもほどよく共鳴してしまう「俺たち」のお祭り騒ぎが、致命的に「鳴り止」む光景ではなかったのか。「おまえは歌うな」という失語の先で、なお「恥辱の底から勇気をくみ来る歌」を現実に対して「たたきこ」(中野重治)もうとする、そんな光景ではなかったか。
 胴元たちや農婦の中にも、各々の弱さがあり、各々の歌がある。そのあたりまえの事実が、この映画では、どこにも見えない。我々の冬とは、自分の弱さに負けることではない。仲間内から裏切者や脱落者が出ることでもない。自分の人生の困難や悪循環とばかり戦いたがって、自分たちから遠くへ離れて行く他人や「敵」たちがその胸に秘めた「歌」の火種を――そして彼らとの関係を再び何度でも開き直していくという、熾き火のような可能性を――感じ取れなくなっていく感覚壊死の過程、それこそが、我々の真の厳冬であるように思える。
 適当に盛り上がって消費されるだけの栃木祭り=SR祭りではなく、誰もがその固有の弱さと強さを異なるリズムで響かせ合っていく「饗宴」(プラトン)――その記憶が、イックやマイティらを真に生かしめる。今後必ず来る、SHO-GUNGや地元コミュニティが砕け散った後の、長く孤独な人生の厳冬においてさえ。(一部修正)