『フリクリ』のこと。

 「偽日記」で絶賛されていたので、見た。


 ↓ネタバレありです。


 マンガ・アニメのマニアックな意匠(ジャンル的歴史のデータベース)をふんだんにちりばめているけど、それが異様に高密度でハイテンションで超絶技巧で、ゴダールとか冨永昌敬の映画を思い出させる。マニアックスなお遊びでありつつ、そこを正面突破するエナジーに漲っている。


 全6話*1わずか100分ほどの作品なのだけど、主人公のたっくんの「青春」的な性的妄想のわけのわからなさが全篇を高密度で満たしていて、それは閉ざされた郊外の「町」の息苦しさ・何もなさとしても表現されていて、たっくんは繰り返し「何も起こらない。永遠に」と呟くのだけれど、そんな日常の中で、女子高生のマミ美は、たっくんの「兄」(死んだ?海外留学中?)の身代わりに橋の下でいつもたっくんを性的に弄んでいて、っていってもだきついたりキスしたりとかのレベルだけど、物語の導入部からして、かなりエロい。そこにベスパにのった自称宇宙人のハル子という謎の女が唐突にあらわれてギターでたっくんをぶん殴り、殴られたところからツノみたいなもの(ペニスのメタファーですな)がぐわっと生えてくるんだが、やがてそこからお決まりのロボットなどが(射精の瞬間のように)出てきたりもする。ハル子も微妙にたっくんを誘惑する、というか、それはむしろたっくんの無意識が招きよせる結果というか、マミ美とハル子の間でたっくんは性的欲望と妄想をひたすらふくらませ、空転させていく。それに応じて世界も猥雑さをまし、混沌の度合いを増していく。


 その意味ではセカイ系的とも言える。男の子の青春期の閉塞感と、町の閉塞感が渾然一体になっている。


 改めて思うのは、男の子の「青春」と、性欲(の、わけのわからなさ)が、切り離せないってこと。ある種の肯定性と暴力のないまぜになった妄想的欲望と、「青春」は切り離せない(もちろんそれとは違う「青春」もあるわけですが)。男の子に都合のいい多くのオタク系ファンタジーは、その暴力のエッセンスに無自覚で、男の子に都合のいい展開ばかりが積み重なっていくからいやったらしいんだけど(村上春樹とギャルゲーの世界観を同根とする認識はよくわかる、よくもわるくも)、『フリクリ』は、そんな無意識のどろどろをくぐりぬけつつ、なおどこか爽快さの水準へと突き抜けていこうともする。 正面突破。


 『フリクリ』は、男の子的な性的ファンタジーの暴力性、つまり「青春」の暴力性を、ハイテンションで描ききることで内側からえぐりだしているのだけど、同時に、たっくんを都合よくセクシュアルに弄ぶ「女の子」の「青春」の暴力性をも返すブレードでたたき切っていて、ハル子は地球の企業に幽閉された自分の男=「海賊王」を取り戻したいという私的理由でたっくんを利用しているにすぎないし(宇宙人たるハル子にとっては自分の男を取り返せれば地球が滅んでも別に構わない)、いじめられっ子で一見可哀想キャラのマミ美も(たっくんもハル子とマミ美との三角関係?の結果、結局ハル子を選んでいるし)、たっくんの「兄」(昔火事の時に助けてくれた)のことが本当は好きなのであって、その都合のいい代理としてたっくんと性的にじゃれあっているにすぎない。彼女達は単なる男の子的青春的性的妄想の投影としての「都合のいい女」ではない、と『フリクリ』は明晰に告げる。三角関係のようで三角関係ではない。そしてたっくんの方が「都合のいい」男なのかもしれないのだ(男の子を性的に弄ぶペドフィリアだし)。結局ハル子は地球から別の場所へ移動した海賊王を追ってたっくんたちを置きざりにして最後まで身勝手に去ってしまうし、マミ美も、その後カメラマンとなってどこかへ去り、ゆくえは誰もしらない。『フリクリ』は、そういう二重の批判の光景を串刺し的に描くのだった。


 たっくんは再び「永遠に何も起こらない」町の中に取り残される。


 ……とか、そういうこともあるんだけど、アニメ的高密度もthe pillowsの音楽も、超絶的にひたすらかっこいいんだった。

*1:【後記】間違って「全5話」と書いてしまっていた。人から指摘されて気付いた。訂正しておきます。