レビュー――小熊英二『社会を変えるには』



 【再掲】レビュー――小熊英二『社会を変えるには』(「ゲンロンサマリーズ」vol. 053)


 本書で小熊がいう「社会を変える」は、ラディカルな革命のことではない。漸近的に進む調整・改良(リフォーム)のことである。小熊は、「左」の社会運動の歴史を、穏当な日常の文脈にソフトランディングさせてみせる。本書の、穏当で良識的な語り口は、「左嫌い」の人々にも、気軽に手に取りやすいものであるはずだ。
 強い倫理や革命を要求する「左翼」の存在意義は、すでに失われた。今、必要なのは、社会をリフォームし続けるという漸近性(世の中は少しずつしか変わらない)を受け入れ、しかもそこにポジティヴな「楽しさ」を見出していくような、しなやかで成熟した「左」ではないか。こうした意識は、おそらく、近年の社会運動の最前線では、デフォルトになりつつある。
 本書は、そのまま、最近目立つ性急な革命への情熱(ポピュリズム、ネット革命、宗教)に対する解毒剤にもなりうるかもしれない。
 とはいえ、気になるのは、小熊の、倫理主義への強い嫌悪感である。近年のデモの非暴力主義やお祭り的な楽しさが、しばしば寿がれる(五野井郁夫『「デモ」とは何か』等)。しかし、その祝祭的な楽しさは、本当にそのまま、社会運動の成熟を意味するのだろうか。そもそも、非暴力とはそんなに簡単なことなのか。たとえば脱原発デモの内部にも、依然として、ナショナリズムや優生思想の暴力(との対決)が根深くあるのだ。
 私の印象は、小熊とは少し違うものだ。近年の社会運動の最良のポテンシャルは、どこにあるのか。それは「お祭り騒ぎで楽しめればいい」という無神経な暴力ではない、あるいは、「楽しむなんて不謹慎だ」という過剰な倫理主義(モラリズム)でもない。小熊がいう社会変革の「楽しさ」は、まだ、快楽の次元が低いように思われる。
 たとえば私は、次のような人たちの「顔」を思い出す。東京で子育てしながら被曝労働者の健康に思いを馳せ、自分たちの生活を静かに見つめ直す主婦や主夫たち。福島で息子や孫と暮らしながら、自分たちが海外のウラン採掘場近隣の子供たちへの「加害者」になってはいないか、と葛藤するお婆さん。近年の社会運動に合流する「普通の人々」たちの中には、ある種の倫理(エチカ)が着実に育ちつつある。というより、もともとそれは「そこ」に「あった」のだ。彼らの倫理的な葛藤は、「社会を変える」と同時に「自分の生き方を変えていく」という高次元の「喜び」をもたらすものではないか。それは、小熊が嫌悪する「左翼」的な過剰な倫理主義(モラリズム)とは、やはり違う、という気がする。【一部加筆】