五反田団『いやむしろわすれて草』

 五反田団の『いやむしろわすれて草』を見た。東大駒場前のアゴラ劇場。2004年10月初演の再演。
 『家が遠い』『おやすまなさい』とかの「いかにも五反田団っぽい」(?)作品ではなく、きちんとした物語の骨格がある。『おやすまなさい』の後だったので、意図的にそうしたらしい。
 病気で自宅と病院を行ったりきたりする三女。その三人の姉妹。父親は数年前に脳溢血か何かで倒れ、自営業の八百屋は既に潰れている。三女の治療費もあるのだろう、父の年金だけでは生活は維持できない。母親はずっと前に失踪したらしい。幼い頃から好きだったピアノ弾きの男の子は次女に取られ(しかし結局次女にすぐふられる)、ただ一人の友人の女性(同じ病気?)はやがてあっけなく死んでしまう。客観的にいえば、悲惨で救いのない現実(アフタートークによると、初演時と台本は全く同じだが、演出の結果「笑い」が薄くなったという)。ここにはたぶん岡田さんの『3月の五日間』『エンジョイ』なんかとはまた異質な貧困がある。


 前田さんは珍しく「びんぼう」の感覚が身体に根付いた人なんだな、とちょっと思った。びんぼうは、格差や貧困とは少し違う。村上春樹はまる金/まるビという図式が成り立つ前の貧乏の感触について昔のエッセイで触れていた。或る時までは貧乏ということには不思議な明るさ・豊かさが同時にふくまれていたけど、80年代位からそういう感触が社会の中から失われ、貧乏は単にネガティヴなものになってしまった、と。前田さんにはそういうびんぼうの感覚があるように見える。


 そして、『細雪』『噂の娘』的な?4姉妹の関係は、微妙で繊細な機微の中にあって(ベッドの上に寝転がりながら交される会話は妙にエロい)、必ずしも幸福な一体感があるわけではない。でも三女を慮る他の姉妹たちはそれを繊細な優しさで包み込もうとしていて(父と三女だけで生活するのはムリだから、誰かが犠牲になって介助しなきゃいけない)、でも三女はそのことに静かに違和感を感じ続けてもいる。強く否定もしないし泣いたりもしない。ただ背中で淡々という。「そういうの、困るんだよなあ」と。


 凄かったのは、次から次へと姉妹たちやお客さんがドアをノックし入ってくる病室での喧騒のあと、夕飯の時間になって皆がいなくなった後の、ひとり病室に残った三女のベッド上に横たえられたカラダ。
 凄いことになってしまっている。
 なんだろうあれは。重苦しいっていうのでもぐったりしているっていうのでもなくて。壮絶な孤独っていうのでも自分に充足しているっていうんでもなくて。無重力っていうんでもなくて。


 その後劇場で買った『家が遠い』『さようなら僕の小さな名声』を読んでいたんだけど、五反田団の台本って普通の紙にワープロで文字を打ってホチキス止めしただけのもの。一冊500円。チケット代も演劇にしては安いんです、1500円(お客さんが増えてきて会場がキツキツなのでゆったり座ってもらうためにお客さんが望むなら値上げの検討もしている、正確には今まで通りの値段の日と少し高目の日の両方を設けるという案がある、どう思いますか?、と昨日のアンケート用紙にはあった)。
 前田司郎さんって肩の力がうまく脱力していて、それは演劇形態やチケット代・チラシ・台本の販売にまで貫かれているんだけど、それは生来の自然体というより(本当は凄く聡明な頭脳派なんだろう)、自力でうまく生活の技法にしてきた、血とし肉としてきた、という印象がある。若き古武術の達人みたいに。