切りきざまれる胎児を凝視する中で

 1970年代前半の青い芝の会やウーマンリブのことをちょこっと調べていて、田中美津が繰り返し口にする「子殺し」のことがずっとひっかかっていた。当時の優性保護法改悪への対抗運動の文脈でも、田中の「子殺し」への独特の拘泥は、賛否両論を招いたらしい。もともとは横浜の母親による障害児殺しがあり、その母親に対する同情と減刑キャンペーンがあり、青い芝等の障害者団体がこれに猛抗議して、中絶の権利を主張したリブの人々も複雑なポジションに置かれることになる。胎児の中絶と障害児殺しはもちろん同じ問題ではないが、連続してもいる。リベラリズムパーソン論の文脈で言えば(煩雑な議論は飛ばす)、ある時期以前の胎児は「人格」を持たない、だからそれを廃棄しても「殺人」には当らない、とされる(例えば脂肪の吸引等と同じ、となる)。中絶の権利、あるいは「産む産まないは私の権利」も、同様のロジックで正当化しようと思えば正当化できる。どんなに生命の尊重を主張するのであれ、「線引き問題」は必ずつきまとうのだから*1
 しかし、リブで言われた「子殺し」には、それとは違う感触がある。リベラルな論理には回収されない生々しさがある。それは何だろう。
 ……と、そういうことをぼんやり考えていたら、その辺を明晰に分析した本に出遭った。

産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム

産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム

 これは名著だと思った。
 山根氏はフェミニズムリベラリズムを明晰に切断し、「フェミニストが主張する〈私の身体は私のもの〉とはリベラリズムの身体の自己所有の概念と同じなのだろうか。〈産む産まないは女(わたし)が決める〉とは、リベラリズムプライバシー権の承認を意味しているのだろうか」と問いを立てる。もちろんこの問いは「同じではない」と答えられる。「女の自己決定権VS胎児の生命権」等といった対立自体がニセの対立である、と。山根氏の繊細な議論を今は追わない。しかし、私が恐ろしいと思ったのは、このフェミニズムリベラリズムの切断自体ではなかった。山根氏のまなざしが、その先で見つめているものである。それはたぶん私が田中美津を読みながらずっとひっかかっていた躓きの感覚と連続している、と思う。
 特に終章で田中美津の言葉にふれるくだりには鬼気迫るものがある。

 田中は、中絶が生命を殺すことであることを直視し、殺人者として自己を引き受けたうえで、女性がこのように中絶をしなければならない状況、中絶をさせている社会のあり方を問題化する。しかし、一方で中絶する側にとっても中絶という行為が正当化しえないことを語らずに、中絶させる「社会の悪」だけを問題にするだけでは、「胎児の生命を神聖視する考え方」に勝てないのだ、と主張する。

 誤解のないように繰り返そう。社会の悪はどこまでも社会の悪として追求せねばならない。しかし、「こういう社会だから」「胎児は人間ではないから」という理屈をもって堕胎を肯定しようとしても、しきれないものが己れの中にはあり、それを問い詰めることを回避しては、子供の生命を神聖視する考え方にあたしたちは勝てない。それは、倫理やエセヒューマニズムとは関係ない地平における、生命(いのち)の持つ意味に対する問いかけである……中絶させられる客観的状況の中で、己れの主体をもって中絶を選択する時、あたしは殺人者としての己れを、己れ自身に意識させたい。現実に子は死ぬんだし、それをもって女を殺人者呼ばわりするのなら、敢えて己れを罪人者【ママ】だと開き直させる方向で、あたしは中絶を選択したい。ああそうだよ、殺人者だよと、切りきざまれる胎児を凝視する中で、それを女にさせる社会に今こそ退路を断って迫りたい。

 こんな感覚の行く末を見定めてみたいと思いながら、下記のような本なども読んでいた。

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平

家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望

家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望

*1:念のために言えば、ある種の潔さと爽快さを漲らせるシンガーのものもふくめ、私はパーソン論には全く賛同しない。