白石嘉治さんの書評



 が、『週刊読書人』の9月5日(金)号に掲載されています(同じ大月書店から刊行された山本三春さんの『フランス ジュネスの反乱』と並べて)。
 あの変な本の骨格を、たいへん分かりやすく説明して下すっています。
 ありがたいです。


無能力批評―労働と生存のエチカ

無能力批評―労働と生存のエチカ


新しい地平を歩き始めるために
個と集団をめぐる隘路をくぐり抜けて
白石嘉治


週刊読書人】(2008年9月5日号)


杉田俊介
無能力批評 労働と生存のエチカ


山本 三春著
フランス ジュネスの反乱
主張し行動する若者たち


 ある大学の教員によれば「若者の孤独」が求められているのだという。烏合に流されることなく、個人として過不足のないコミュニケーションをとれるようになること、それが学生生活の本分である、と。だが、現実の若者や学生は、充分すぎるほどコミュニケーションに配慮しているのではないか?「KY(空気読めない)」が関心の中心にあり、「ネットカフェ難民」に象徴されるように、資本によって組織された孤独はその悲惨の深度をましているのではないか? 『無能力批評―労働と生存のエチカ―』と『フランス ジュネスの反乱―主張し行動する若者たち―』という、同じ版元から同時期に出された二冊の書物は、こうした個と集団をめぐる隘路をくぐり抜け、新しい地平を歩きはじめるための手がかりとなるものである。問われているのは、若者たちの集合性であり、コミュニケーションの過剰や過少としてあらわれるような運動の行方である。
 『無能力批評』は、杉田俊介の二冊目の批評集である。二〇〇五年の前著『フリーターにとって「自由」とはなにか』(人文書院)以後、杉田は有限責任事業組合という形態のもとで雑誌『フリーターズフリー』を創刊し、並行して『フリーター論争2.0 フリーターズフリー対談集』(人文書院)などで、いわば人文系介護労働者という特異な立場からの発言をつづけてきた。それは同じ事業組合の生田武志(『<野宿者襲撃>論』人文書院、『ルポ最底辺 不安定就労と野宿』ちくま新書)、さらには雨宮処凛(『生きさせろ! 難民化する若者たち』太田出版)や湯浅誠(『反貧困 「すべり台社会」からの脱出』岩波新書)とともに、今日における生そのものの不安定化=プレカリテを可視化するシーンをつくりあげてきたといえるだろう。
 杉田が新著で提起するのは、「無能」ないし「無力」にもとづく「≪絆≫」の可能性である。われわれはつねに人的な資本としてその「ポテンシャル」がつけ狙われている。そしてこの要求に耐え切れないときに、経済的に困窮しながらも「内なるネオリベラリズム」にとらわれてしまう。そこからの脱出の模索が「エチカ」として、つまりたんなる認識ではない「当事者」の実践知として語られていく。メルヴィルバートルビー』から荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』まで、あるいはカント、アレントアガンベン小泉義之立岩真也赤間智弘など、数多くの名が召還され、それらが執拗ともいえる固有の誠実さによって「無能」のテーマにそってゆるやかに編み直される。
 こうした批評の歩みがある種の恋愛論(「『男性弱者』と内なるモテ幻想―メンズリブノート―」)に到達するのは偶然ではない。われわれは恋人のまえで「無能」かつ「無力」であるほかないだろう。すくなくとも、そこでは外在的な評価によることは暴力である。この飛躍をはらむ根源的な二者の関係の、原理的に多数決による排除がありえない――多数決には最低三名必要だろう――関係の累乗を、かつて喜安朗は「革命的サンディカリズム」と呼んだが、おそらくそれは杉田のいう「≪絆≫」が示唆しているものだろうし、山本三春が『フランス ジュネスの反乱』で描き出すのは、そうした恋愛=サンディカリズムの力能のみなぎる新たな群集が街頭で恢復されていく現実のプロセスである。
 パリの郊外で車両が次々と炎上したのは二〇〇五年の秋だった。まさに杉田の前著が出たころだが、翌年の春には、雇用の不安定化をうながす法案(CPE)の撤回を求めて学生たちが街路にあふれた。『フランス ジュネスの反乱』のなにより特筆すべき成果は、社会的な背景の違いをふまえつつも、これら二つの「反乱」を結びあわせてみせたことである。それは二年におよぶ現地での取材の結実であり、著者自身も変容しつつ「ジュネス(若者)」の「暴動」と「マニフ(デモ)」に同じ「未来」が賭けられていることを見いだしていく。この書物自体、郊外の少年や学生、そして外国人の著者という、それぞれ「無能」と「無力」であるほかない者たちの輝かしい連帯の証であるといえるだろう。
 〇五年から〇六年にかけての「反乱」は、その規模と質において六八年五月を想い起こさせるといわれる。だが、こうした運動の湧出を文化に根ざしたものとのみ考えてはならない。山本もいうように、大学でストライキを組織した学生たちもはじめはごく少数だったのであり、技術的な蓄積もたよりないものだった。にもかかわらず、三〇〇万人のマニフへと登りつめていく。われわれとしては、こうした行動の対極にあるかのような『無能力批評』の「蛇行」や「とり乱し」(田中美津)にこそ、予示的な徴侯をみてとるべきだろう。車に火を放った若者たちに、何らかの展望があったわけではない。大学を封鎖した学生たちも同様である。ただ情動の真実は伝播するのであり、この二書を熟読することはそれを担う群集の乱入を確信することにほかならない。(しらいし・よしはる氏=上智大学ほか非常勤講師・フランス文学専攻)


★すぎた・しゅんすけ氏は現在、障害者サポートNPO法人職員。有限責任事業組合フリーターズフリー組合員。著書に「フリーターにとって『自由』とは何か」など。一九七五(昭和50)年生。
★やまもと・みはる氏はジャーナリスト・著作家。新聞記者として長くフランスを担当し、パリ特派員を経て、パリ在住ジャーナリストに。著書に「フランス・サッカーの真髄」など。一九五九(昭和34)年生。