優生学・家族負担・尊厳死



 単なるメモです。


 以下を読んだ。


◆堀田義太郎[2004]「障害の政治経済学が提起する問題」、『医学哲学・医学倫理』、第22号、pp. 37−46
◆堀田義太郎[200508]「遺伝子介入とインクルージョンの問い」、『障害学研究』第一号、2005年8月、障害学会
◆堀田義太郎[2006]「研究利用目的のヒト胚作成と卵子提供をめぐる倫理的問題」、『生命倫理』17号、2006年、日本生命倫理学
◆堀田義太郎[200610]「生体間臓器提供の倫理問題――自発性への問い」、『医学哲学・医学倫理』第24号、2006年10月、pp. 31-41
◆堀田義太郎[200612]「決定不可能なものの倫理――「死の自己決定」をめぐって」、→『現代思想』[200612]、青土社
◆堀田義太郎[200703]「優生学ジェンダー――リベラリズム・家族・ケア」、→大越+伊桁編[2007]『脱暴力へのマトリックス』、青弓社


 堀田氏は優生学と家族介護に関する論文でこう書く。「優生学」は、歴史的に人種主義・国家主義軍国主義・平和主義・資本制・共産主義エコロジーキリスト教神学・民主主義など、様々な立場と自在に結びついてきた(これらに関しては既に多くの研究が積み重ねられている)。それらを優生学の本質と考えるわけにはいかない。では堀田氏の考える優生学の核心とは何か。

《私たちはむしろ、従来「国家による強制断種」などの単純な悪によって隠されてきた「優生学」の核心は、明らかな強制や暴力がなくなってはじめて明らかになったと考えるべきである。すなわち、優生学の核心にあるのは人々の「負担回避」への利害である。》(堀田[200703]117p)
優生学の基盤には、生活に援助が必要な人々の生活を支援する負担を回避したい、というあなた自身の「利害」がある。それは現在では、あからさまな他者への暴力としてではなく、家族とりわけ女性に負担を負わせることで隠蔽されている。あるいは、「選択的中絶」などの技術によって、問題は最初から存在しなかったことにされようとしている。》(堀田[200703]130p)

 堀田氏の仮説がどの程度正しいのかは素人の私にはわからない。ただ、「生活に援助が必要な人々の生活を支援する負担を回避したい」という感覚が優生的な暴力の一つの土壌を醸成していくのは事実だろう。ではこの「負担回避」は、家族・近親者のエゴや義務の放棄なのか。法的にそういう面もある(これも諸議論があろうが)。しかし、堀田氏が次の感覚から議論を始めている事実が決定的に大切に思われる。堀田氏は障害児の母親が漏らした次の言葉を繰り返し引用する。

《でも、障害児の母って逃げられません。私も若い頃、何回か離婚しようと思った。その時、主人が言ったのが“どうせ、お前は生活保護を受けるか、どこでも働けんで子どもを施設に預けて、ひどい人間になって。どっちにしてもひどい人生を送るんだ”って言われて。“悔しいー”って思った。どうにかして何か身につけて働いて自立して離婚したいと思ったけど、周りを見わたして障害児を抱えて離婚した人たちをみると、結構、悲惨な人が多くて、やっぱり離婚できないなって。選択肢が少ないよなって。そんなしているうちに父親の介護にも追われるようになってしまって。これもレールなのかな、って。》(春日キスヨ「介護とジェンダー――家族介護を中心として」に引用された言葉)

 家族への負担の強制に関する鋭敏な感覚は、生体間臓器提供([200610])や尊厳死言説([200612])に関する議論にも貫かれている。


 たとえばmojimojiさんのブログには、尊厳死に関するエントリーがいくつもある。非常に勉強になる。しかし、次のような箇所はどうだろう。

 《分かりやすく言えばこうなる。ある人が病気になったり事故にあったりして多大な医療・介護負担が生じたときに、家族が自分の人生を捨てて医療や介護にかかる費用を稼ぎ出す+自らが直接介護を担うか、さもなければ本人が死ぬ。ここで選ばれているのは「(本人が)生きるか、死ぬか」ではない。「本人が生きるか、家族が生きるか」が選ばれているのである。・・・これはいわゆる「救命ボート」状況であるのだが、しかし、この「救命ボート」は医療経済的怠慢によって捏造された「救命ボート」である。医療費と介護費が社会によって負担されれば、「本人も家族も生きる」ことは可能であるのだから。》

 これは「正論」なのだが、そしてこのタイプの議論(「家族介護は社会化すればよい」「家事労働に賃金を」)は多くの人が用いるものでもあるが、肝心な何かがスキップされているという印象は素朴に受ける。例えば立岩真也は「犠牲は不要」と述べる。「しばしば出てくるのは救命ボートの例なのだが、これは極限的で例外的な状況であり、他から助けがこないというその状況そのものは受け入れるしかないという設定になっている。だが、多くの場合には、ボートの大きさを大きくしたり別のボートをもってくることは可能であり、それをしないことこそが「倫理」に反している」(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2006055.htm)。間違っているとは言わない。しかし、やや言葉が強すぎるようにも思う。救命ボート状況を仮定することは「倫理に反している」「(現実的には仕方ないにせよ)正当化できない」としばしば脱構築される。しかし、そうか。案外これは身近なものなのではないか。「医療経済的怠慢によって捏造された「救命ボート」」と日常の中で強いられる「姥捨山問題」(森岡正博)は、少し水準が違うのではないか。前者を用いた恫喝は批判されるべきだとしても、その先にありふれた後者の問題は依然残る。(生活の全て、とは言わずとも)自由な生活のほとんどを犠牲に捧げる以外ない「決断」を迫られる人々は、案外多いのではないか。そしてその「負担」の押し付けは決して平等ではない。


 森岡正博氏の「姥捨山問題」(1988年、http://www.lifestudies.org/jp/ubasute.htm)を先日初めて読んだ。
 次の問いは、依然クリティカルだと思う。

 《人工妊娠中絶がこんなにも多いのはなぜか。若い女性たちはどのような動機で、人工妊娠中絶を選択するのか。彼が堕せと言ったから。経済的理由から。生まれてくる子供のことを思って。しかし、表面には出てこない重要な動機のひとつとして、「経済的に私が苦しくなるのがいやだから」「生まれてくる子供のことを思いやってではなく、子供を産んでしまったあとの私の生活のことを思って」という動機があるのではなかろうか。私はまだ若い。お腹のこの子さえいなければ、私はもっともっと楽しい生活をエンジョイすることができる。今、この時期に子供が生まれるのは、私にとってこのうえない迷惑である。だから、胎児にはかわいそうだが、私は人工妊娠中絶を選択する。》
《出来ないからしない、というのなら話は分かる。ところがこれらのケースでは、「出来るのに、しない」のである。出来るのに、しない。それはなぜか。それをすることで、私が(あるいは私の身内が)これ以上苦しむのがいやだからである。痴呆性老人の世話を続けることで、あるいは赤ちゃんを産んで育てることで、私がこれ以上苦しむのがいやだから、私は彼らを見捨てる。本人のためを思ってとか、そうするのが普通だからとか、様々な言い訳がなされるだろうが、心の奥底では、私がこれ以上苦しむのがいやだから彼らを見捨てるのだ。
 私の心の中に潜む利己傾向、私がこれ以上苦しむのは絶対いやだという利己傾向が、姥捨山問題を生む。ただし、姥捨山問題は、単なる利己傾向・エゴの問題ではない。》

 「生活に援助が必要な人々の生活を支援する負担」(ケア)を引き受けることが「できない」のではない。できる。生活の一定部分を差し出すのであれば。しかしそれを「しない」。できないのではなく、したくないから、しない。倫理的にそれは間違っていると言われるだろう。法的義務の放棄として裁かれる時もあるかもしれない。しかし、この感覚を見ないところから組み立てられる正義や自由の感覚は、どこか弱いのではないか。率直にそう思う。森岡氏は「私の心の中に潜む利己傾向、私がこれ以上苦しむのは絶対いやだという利己傾向が、姥捨山問題を生む」と書く。しかしその直後に「姥捨山問題は、単なる利己傾向・エゴの問題ではない」とも書く。これは多数派か少数派かを問わず、強いられる問題ではないか。この微妙なところ。それでいて、とてもありふれていて、リベラリズム系の議論からはしばしば見落とされがちなところ。
堀田氏は先の障害児の母親の静かな呟きにふれて「この一節を常に念頭に置いておこう」と書く。そこから議論を始めている。きっとこの辺りに、家族介護の現実のリミットがある。前方に来るべき暴力の予感を見据える時、「優生学の基盤には、生活に援助が必要な人々の生活を支援する負担を回避したい、というあなた自身の「利害」がある」という言葉が、とても重苦しい。


 森岡氏の「生命学とは何か」(2007年)も読んでみた。「姥捨山問題」から明らかな一歩を踏み出している。それをどう考えるか。少し考えてみたい。


 あと↓ちゃんと読まないとね。

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