「できる」と「できない」は対立しない。



 続きを、少し。
 ……しかし、「姥捨山問題」という言葉から思い浮かべるイメージがそれぞれ違うので、難しいですね。


 以下、単なるメモ。とりあえず頭を整理。
 「決定」の水準だけで考える。「条件」(「行動障害の子どもを入所施設に入れるか」「障害のある子どもを産むか」「200円でおやつを買うかアフガンに寄付するか」等)はカッコに入れる。
 そもそも「できる」(1)と「できない」(2)は、「できる/できない」という二項対立の関係にない。
 「できる」(1)とは、「する」(2・1)か「しない」(2・2)か、その人が自己決定できる状態にあることを、前提におく。
つまり選択肢(2・1、2・2)がその人には与えられている。
 これに対し、「できない」状態には、それらの選択肢自体が与えられていない。前エントリーのコメント欄でこう書いた。《例えば本当に苦しんで行動障害のある子を入所施設に入れる決断をした母親がいるとしますよね。「育てたい」「でも出来ないかもしれない」「でも出来るかもしれない」「この子を愛していないかもしれない」「でも」…と、ぐるぐるぐる。これは特殊な例じゃないと思うんですよ。事実として「できる」か「できない」かは、本人にはわからない》。
 すると「できるのに、しない」という命題は、正確には次のようになる→「私はすることもできるし、しないこともできるが、私はそれをしない」。ここには「できない」という水準の入る余地はない。
 まず(1)(2)では、行為のレベルそのものが違う事実を踏まえないと、余計な混乱が生じる。
 その上で、(1)と(2)を「区別」すること自体が致命的な暴力ではないか、という可能性がある。次の言葉は極めて重い。

 《「姥捨て」する人が「本当は『できる』」人なのか、「本当に『できない』」人かというのは、誰にもわからないでしょう。それを「わかる」という人にはくれぐれも注意しておかなければいけないのではないかと、ひとまず実践的に思います。それが当事者であれ、支援者であれ。》
 《「もうがんばれない」人に「まだできるはずだ」と言うことと、「がんばろうとしない」人に「まだできるはずだ」と言うことの間に、自分は大きな差を見出すことが今のところできません。》
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20070406/1175875813

 知的障害のある子どもやご家族の現実に根ざす限り、ソイさんとlessorさんのやり取りにぼくごときが付け加えることは何もない*1。倫理の面でも論理の面でも。そもそも、「線引き問題」という問いの立て方自体が「問題」なのだ。
 しかし、それだけでは片付かない現実(3)があり(これはつまり「条件」の設定に関わるんだろう)、そこでは「できるのに、しない」ということが案外大きいのではないか、と依然ぼくは思う。「できるのに、しない」人を批判しているのではない。ただ、そこにないがしろにできない大きな問題がある。(2)と同時に、(3)についても考えていきたい。そう思っている。


 抽象的な話に終始してしまいましたが。

*1:「「もうがんばれない」人に「まだできるはずだ」と言うことと、「がんばろうとしない」人に「まだできるはずだ」と言うことの間に、自分は大きな差を見出すことが今のところできません」。この言葉の重さを、できる限り噛みしめよう。正直ブロガーには何かをすぐにわかったつもりになる人が多すぎる。ぼくも含めて。正直に言えば、この仕事に就いて5年目になるが、ぼくは「自分は大きな差を見出すことが今のところできません」という境地にまだまだ達していません。