『蟲師』
連れの『蟲師』(8巻まで)を読む。五十嵐大介の時も感じたけど、こういう「生命観」には大事なものがあるって思う。ギンコの蟲師としてのお師匠さんみたいな女性は、自分の夫と子どもを蟲に取り込まれ、永久に失ってしまう。自分も片目を失い、命が尽きるのも時間の問題だ。ギンコは彼女に「なんであんな恐ろしい蟲を殺さないの」と問う。彼女は答える。
恐れや怒りに、目を眩まされるな
皆、ただそれぞれがあるようにあるだけ
逃れられるモノからは、知恵ある我々が逃れればいい
蟲師とはずっと、遥か古来からその術を探してきた者達だ
なんという言葉だろう。
繰り返すが彼女は自分の最愛の夫と子どもを殺され、かつ今自分もその蟲に取り込まれて死に行こうとしているのだ。
『蟲師』の世界では、人間と蟲は同じ生命の一部と捉えられる。人間が蟲を殺すこともある。蟲が人間を殺すこともある。しかしそこも含めて同じ世界を生きている。蟲に憑かれて人が死んだとしても、親しい者を失った哀しみは深い悲しみそのままでありつつ、蟲への憎悪や怒りへは必ずしも行き着かない。蟲は美しく「共生」できるような存在ではとうていない。むしろ人間の「敵」に近い。しかし、そういう不気味な隣人と、ある不思議な形で共に生きていくということ。いや、人間の力ではどうにもならない生命の存在を感じ取りながら、卑小なこの生を懸命に生きていくこと。そのための技法を蟲師たちは長い時間の積み重ねの中から学んでいる。ぼくはいわゆる「生命=いのち主義」のスピリチュアルな感じにどうしても馴染めないが、『蟲師』的な感覚に大事なものがあるという感覚もどこかにある。
『仮面ライダー響鬼』をもう一度みたい。
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