殺し合いの螺旋/小さく弱い者

 『バガボンド』25巻を読む。
 吉岡編から武蔵は「天才」になってしまった。天才と凡人は「わかりあえない」。コミュニケーション自体がもう成り立たないのだ。吉岡編から、『バガボンド』のディメンションが少し変わったように思う(中上健次の『地の果て至上の時』を思わせる)。吉岡兄を倒してからの武蔵は、誰に勝利しても「自分が勝った」という確かな感覚を得られない。勝ったのは俺だよな?と訝しく思うのは彼の方だ。
 「たたかい」の中にいる限り、最大の敵こそが最大の友となる。小次郎や武蔵はこの感覚を共有している。しかし、小次郎はともかく、武蔵はこの感覚自体への疑いの気持がある。
 「殺し合いの螺旋」から降りること――このテーマは、ますます武蔵の心を強迫反復的に呪縛しつつある。
 降りられないこと。
 辻風黄平が殺し合いの螺旋から降りるためには、彼自身の力では足りなかった。自分では降りたくても降りられなかった。彼と同じく無力に虐待されてきた小さく無力な女の子の側から差し込む光、それが辻風には必要だった。子どもの血のぬくさが必要だった。その時、辻風は、自分を斬った武蔵の前で土下座して、俺を生き延びさせてくれ、女の子のみならず俺を生かしてくれ、俺の怪我を治療してくれ、と頼む。かれらのもとを去ったあと、武蔵は思う。俺は辻風に勝った。しかしそれが何だ?


 剣に人生をかけながら、決して剣からは愛されない伝七郎や祇園藤次の姿が、あまりにも痛ましい。
 祇園藤次の「剣にすら愛されぬのか」という最後の言葉を、ぼくは親しい激痛と共にしか読めない。