普遍性と枠

 「福祉制度の現状」みたいなものをひろくトータルに伝えようとすると、「何だか大変そうだけど、具体的に何がどうなのか、よくわからない」。
 逆に、個別の当事者の話しをしようとすると、その人個人の切実さが際だちすぎて逆に他人にうまく伝わらなかったり、プライヴァシーとか色々な問題がからんできて、伝えることのむずかしさを感じる(特に知的障害のひと)。
 ある養護学校の先生とお話していて、個別のケースの話から、いかに、他のケースにも応用可能な、普遍性のある「ノウハウ」(そういう言い方はしていなかったけど)を引きだしてくるか、これが難しいけど、大事なのだと。


 この話とつながるかわからないが、先日、自閉症の勉強会の場で、講師の人(重度の自閉症児のお母さんでもある)が、自閉症の人の生活を支えていくうえで大事なのは、本人に「なんでもすきにやらせる」(これが時に「自閉症者=わがまま」と理解されてしまう)ことでも「強制的にパターンにはめる」(これが時にある種の自閉症療育に対する「軍隊式」という偏光を生む)ことでもなくて、うまく生活の「枠」を整えてあげることだと。枠をひろげすぎてしまうことが、時に自閉症者に対してむざんな結果を生むと*1。それは本人を甘やかすことじゃないし、むりやり強制=矯正することでもないと。それが「共存」の技法なのだと*2


 ・・ちょっとだけ、何かが腑に落ちかけている。たぶん、素朴すぎるレベルの話なんだけど。

*1:最近、毎週サポートに入っている大柄な自閉症の人について、「ひとつのトラブルを緊急回避するために、別のあることをゆるしてしまった」ことが、雪ダルマ式に状況を悪化させていく、という経験をし、自分のサポート技術の未熟さをあらためて痛感させられた。グレーすぎるテリトリーを無思慮に(その時は緊急回避のためにどうしても必要だと確信されたのだけど)ひろげてしまい、その人にどれだけ苦痛だったか。まっさらな状況からある人のサポートに入る、ということはありえない。自分のミスをふくめ、そのひとの生活の全体を受け止め、支援者のささやかな「責任」としていくほかにない。

*2:自閉症は「脳の器質的・機能的な障害」と言われる。特に他人との社会的なコミュニケーションに関わる。よくイメージされるのが、何もわからない外国に、一人で放り出されたような状態だ、と。何を言われているかわからない、何を言っていいかわからない、何をしていいのかわからない。ただ何かを非難されている感覚だけが伝わり、不安とストレスがつのる。例えば「手がない」「目が見えない」のと同じで、この部分はいくら努力しても出来るようにはならない。しかも、大切なのは、この「できない」部分が、一人ひとり違う(自閉症者の「典型」はない)うえに、他人からは――「手がない」「足が動かない」というようには――目に見えないことだ。この「脳の器質的・機能的な障害」の部分を認めた上で、本人にふさわしい教育・療育の問題が出てくる。参照『やさしい自閉症のススメ』藤村出、横浜やまびこの里