当事者主権の原点

 それにしても、最近のひきこもりや不登校の「当事者性」をめぐる議論が、こうも人を疲弊させ、誰が本当の当事者か?の循環に次ぐ循環をくりかえさせ、ベタとメタの瑣末主義(トリビア、スコラ主義)におちいりがちなのは、何故なんだろう。素朴に不思議なのだった。これは何か単純な「罠」ではないか。当事者が無条件で全て正しいことはありえない。「誰もが当事者だ」という一般化もつまらない。ぼくは「当事者主権」の原点には、素朴な怒り、やむにやまれぬ羞恥、ストレートな反撃の感覚があるって素朴に思い、それだけではたぶん素朴すぎてダメだけどまずはそれが必要だし、まずはそれでいい、と思うんだけど。