保坂和志『生きる歓び』

生きる歓び

生きる歓び

 《「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」という言い方があるけれど、「生きることが歓び」なのだ。世界にあるものを「善悪」という尺度で計ることは「人間的」な発想だという考え方があって、軽々しく何でも「善悪」で分けてしまうことは相当うさん臭くて、この世界にあるものやこの世界で起きることを、「世界」の側を主体に置くかぎり簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えないと思うけど、そうではなくて、「生命」を主体に置いて考えるなら計ることは可能で、「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。》


 死にかけで障害の残る子猫が次第に「生」の側へ動き始める過程…。その中で「私」にふっと灯る直観――、「生」はそのまま「善」であり「歓び」だ、と。『生きる歓び』は淡々とそう言い切る。「80年代的」云々の世代論から最も遠く離れた異物的な小品。
 ロジカルに証明は出来ない。小説そのものがその証明の過程としか言えない。そんな風に執筆期間4日の、この即興的な小説は書かれている。引用の部分だけ取りだせば、甘ったるい「信念表明」にしかならない。


 保坂はこの時、「世界」の非情さを肯定し世の出来事は「簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えない」とする(言わばスピノザ的な)スタンスから、「別の」半歩を、斜めに踏みだす。善悪や超越の問題を「人間的」なロマン趣味から半歩だけズラして捉え直す。「生=善=歓」。これは「死は悪だ」という意味ではない。「生きねばならない」という意味でもない。それらの問いは重層的だが根本的に全く異質な問い、異質な回路を持ち、「生」はそのまま「善」であり「歓び」だという感覚は、他の問い=回路との比較ではなく、それ自体として、しかし日常生活の積み重ねに沿って、具体的にしめされる。
 くりかえすけどこ形式的な論理ではない。でも一人よがりの信念表明でもない。小説という形式が、言葉の流れが、それを「説得的に」淡々と告げる。ぼくもこの存在の肯定、「存在=善」の直観を、実は同じく信じ、生活実感として信じる。
 例えば『生きる歓び』は(そういう言葉は出て来ないけど)一種のケアの小説、もっとも弱い存在(瀕死の子猫)との介助の関係を描くと言えるが、それは「私」と子猫の関係の中では美しい善意の行為なんかでは全然なく、むしろ本当は「介護」「ケア」等の言葉が自ずと消失する時、それらのアクションは日常のただ中に(内在=超越の共存として)烈開し、ひらく。事実「私」は他者を「世話」する日々の矛盾を、こう述べる。


 《これでしばらく子猫の世話にかかりっきりになることが決まり、その間自分のことは何もしない。できたとしても私はしない。大げさに聞こえるとは思うが、自分のことを何もせずに誰かのことだけをするというのは、実はいちばん充実する。
 そう書くとすぐに私が常時それを望んでいると誤解する人が必ずいるけれど、望んでいるわけではない。そんな時間はできれば送りたくはない。逃げられないから引き受けるのだ。そして不断は横浜ベイスターズの応援にうつつをぬかしていたい。》


 とはいえ、保坂的な「善さ」には、やはりネオリアリズム(自分の属する狭い世界だけを徹底的に生き抜く実用主義)的な危うさは残る。
 シンプルな「狭さ」の問題。その存在と生命の「善=歓び」が、仮に別の世界の排除と収奪の上に成り立つなら。月並みだがそう疑ってみる。平凡な夫婦のみならず、子供さえも、瀕死の子猫さえもその構造的暴力の循環を免れないなら。他方でこの「確信」の問題が残る。殴られ、奪われ、掠め取られている存在すら、別のより弱い誰かを殺し、奪い、食わねば生きのびられない。生とは絶対悪だ。その直覚的な問いは別の場所に、原罪などではなく、日常の素朴リアリズムとして執拗に、悪性腫瘍のように残る。親鸞が悪人の問題として、宮澤賢治が「よだか」の問題として問うたもの。保坂固有のリアリズムと「リアリズム」が異なるように、親鸞宮澤賢治の「悪」をめぐる論と宗教的原罪主義は違う。その細かい違い、問いの質の違いが大事と考える。
 存在の「善さ」と存在の「邪悪」の確信は、ある矛盾(アンチノミー)としてしか掴めないのかも知れない。その断裂を見ず、保坂的世界の感覚をそのまま引き伸ばし広げてしまえば、自分の思考と善を規定する「場」を反省し、批判的に介入する可能性が無くなる。だが、世界の「肯定/否定」という対立を断ち切って真に《肯定》――真の《全否定》と言っても同じことか――するには、「邪悪」の問題を通過する作業=手続きが不可欠ではないか。
 例えばナイト・シャマラン監督の不可思議な映画『サイン』『ヴィレッジ』にあるのは、自分が属する大地への――「第三世界の貧困を見よ、先進国の飽食を恥じよ」タイプの単純なサヨク的批判ではない――そんな「屈折した」違和の感覚だ。前者は絶対的に善きものがそのまま何かを致死的に排除する光景を、後者は絶対的に善きものが経済的な自閉とゲート化の上に成り立つ光景を、「善きもの」の肯定に重心を置きつつ描く。ではその違和を断ち切るべきか、さらに徹底すべきか。「生」は「善」であり「歓び」だ、という確信を、さらにその先へと灼熱させ、日常の厚みの中に本当にがっしりと根づかせるための条件とは、何か。
 なんかいつも同じこと書いてる気がするけど。