ナイト・シャマラン『サイン』と『ヴィレッジ』

 シャマラン映画をみると落ち着かない感じになる。それは作品のねじれた構造から来る*1。シャマランのベーシックな世界感覚は、内部と外部、正義と暴力のメビウス的な反転(決定不能)、にあるのだろう。家族の日常を描く決め細やかなリアリズムと、SF的な荒唐無稽さ(幽霊/アメコミ的ヒーロー/宇宙人/森の住人)のがねじれながら並存している(古谷利裕の精緻な分析がある)。


サイン ― コレクターズ・エディション [DVD]

サイン ― コレクターズ・エディション [DVD]

 『サイン』では、交通事故で妻を失った牧師と二人の子供、牧師の弟の四人の関係が、繊細に描かれる。日常部分の優れた描写が、シャマランの作品を支える骨格になっている。堅実なリアリズムを欠くと、作品全体が荒唐無稽なものとして空中分解しかねない。
 『サイン』は、宇宙人による侵略の話だが、それは「イメージ通りの」UFOと宇宙人だ。ミステリーサークルを作り、奇妙な声で鳴き、爪があり、人間を食料にし、水に弱い。B級SFのエッセンスそのもの。最後までどんでん返しや「逆転」(『シックスセンス』の死者の逆転、『アンブレイカブル』の悪役の逆転)もない。でも、そんな「イメージ通りの」宇宙人の侵略が、一級のリアリズム描写で、淡々と描かれる。
 家族たちは現在の「世界」で生じている出来事の情報を、テレビやラジオでのみ知る。宇宙人の情報もそうだ。作品では、家族が住む極端に狭い「家」と、マクロな「全世界」の状況が――テレビやラジオを介して――ダイレクトにつながっている。両者を結び付けるのは想像的イメージであり、その転移と相互投射。家と世界の中間に当る「街」も途中で何度か登場するのだけれども、ほとんどまともに描写されることはない。街の人々もメディアの情報に曖昧な不安を抱き、宇宙人のイメージ、何かに内側を汚染され侵略されつつあるというイメージに感染していく。


 『サイン』のねじれたリアリティは、見終わったあとに来る。
 ――これは新興宗教の信者たち(その家族)の物語なんじゃないだろうか?
 テレビCMによってマインドコントロールされていると言い、水が汚染されていると言い、宇宙人の侵略や毒ガス攻撃を恐れ、地下室に閉じこもる。そもそもUFOや宇宙人の情報も、テレビやラジオや伝聞から基本的に取られる。確かに、最後に宇宙人は、生々しく家族の目の前に姿を現す。でも、それ自体が現実なのか幻影なのか? 何のひねりもない宇宙人の造形は、集団催眠か共同幻想の産物にも映る。この映画の家族関係は、とても繊細だしリアルだと言った。大事なのは、シャマラン監督がそれを本気で肯定していること、その強度だと思う。イロニーの苦味は寸分もない。*2
 するとこのねじれたリアリティを、ぼくらは肯定すべきか否定すべきか。このねじれたリアルの感覚は『ヴィレッジ』でもより複雑に、重層的に変奏され反復される。


ヴィレッジ [DVD]

ヴィレッジ [DVD]

 『ヴィレッジ』は奇妙な「掟」に縛られる村の、牧歌的な生活を描く。
 『サイン』と同じく、三つの構造から成る。住民の住む村と、モンスター=「彼ら」の住む森と、その外にある「街」
 『ヴィレッジ』は、盲目のヒロイン/朴訥な男/知的ハンディのある男、の「三角関係」を、物語の骨格におく。その関係の描き方が、また重厚でセンシティヴで、素晴らしい! 盲目の娘は愛の証明を求め、村の異端である男は、彼女への愛ゆえに言葉では何も語れない。知的ハンディのある男は、自分の中の衝動に困惑しつつ、二人の関係を暴力的に切り裂く。関係は単純だが、描写が厚く深い。ラブストーリーとして、単純に優れている。
 物語の後半、森に住む怪物=「彼ら」が、実は村の大人たちが捏造したフィクションにすぎない、とわかる。村の平穏な生活を守るため、外界の交通を遮断した。そのため、森の怪物=「彼ら」の存在を捏造し、森へ入ること、その外へ出ることへの恐怖心を根づかせ、村人を共同体の中に閉じ込めた。ヴィレッジを包む「壁」は、二重だ。娘は愛する者を救うため、森の想像的な「恐怖」を「愛」の強度で果敢に乗り越える。でも娘は壁Ⅰは越えたが、壁Ⅱは越えられない。


 では、かれらの愛と平和は、何によって成り立っていたか。
 平和な村に生じる人間関係の切実さもまた、疑えない。共同体のべたつく優しさではない。宗教的コミューンの静けさでもない。繊細さや沈黙を含むささやかな日常が噛み締めるように存続し、肯定される。そもそも、村の大人達は、「外」の現世で様々な暴力に巻き込まれた人達のようだ(それらの悲劇は断片的な形でのみほのめかされる)。ひどい目にあってきた人たちが、平和と友愛を求め、しかし強引にではなく可能な限りの繊細さで、一つのヴィレッジを作った。しかもこの村は、盲目の娘や知的ハンディの青年達の存在を、当り前のように――ということは、差別や聖化の対象としてではなく――受け入れる。実際、彼らには障害が結婚や友愛のハンディに全くならない。この平和と愛に、否定されるべき要素はない。彼らは別に誰かを排除していない(森の住人を演じるのは村人自身であり、特定の他者を異人的に排除しているわけではない)。また、自分達のヴィレッジを守る防壁の壁も、街で生活していた頃に自分達で集めた資金で作り、維持費を支払い続けている。経済的自立の産物だ。
 すると、どうなるか。

*1:というか、その「ねじれ」の複雑さにある。

*2:ぼくらは、新興宗教の信者達が、何か抽象的な生活を送っていると勝手に思い込んでいる。例えば森達也『A』を見た時、オウムの人もものを食べるんだ、キティちゃんや折り紙に興味を持つオウム信者もいるんだ、と感じなかったか。他者の生活の物深さや重みへの感受性、想像力を鈍磨させていなかったか。でも、本当は、新興宗教の信者達とその家族もまた、繊細で感情の厚みのある生活を営んでいるはずなのだ。