阿部和重「鏖」

 思うところがあり、書きためた(乏しい)批評ノートのまとめを、もうしばらく続ける。

「鏖(みなごろし)」(一九九八年一二月)。阿部の中でも少し気になる作品。
 ↓『無情の世界』所収。


無情の世界 (新潮文庫)

無情の世界 (新潮文庫)

 阿部の文体。1980年代的(?)なだらだら文体の系譜。しかし例えば、保坂和志の固有なだらだら文体は、「意味」を嫌い方法的な迂回と停滞を続け、その過程=時間を通し、日常の豊かな発見を刻み付ける。顕微鏡的、いや虫瞰的。対して、阿部和重のだらだら文体は、たんに空虚すぎる語り手の観念的妄想と同語反復が水増し的にうだうだ続くのみで、新しい発見=風景は全くひらかれない(多分一番似ているのは、金井美恵子ではもちろんなく、町田康では?――気質は全く異なるが)。
最近石川忠司の、阿部の文体のペラさは日本語のペラさと同形という指摘を読み、見事な分析だと思った。例えば中国語なら「謝謝」と一言で済むのを、そもそも外国語の借物言語である日本語だと「心から、本当に、大変、厚く、感謝申し上げます」と冗長に繋げる作用が働き、「この「ペラさ」を克服し突き破り、具体的な対象に到達せんがため、われわれは助詞やら助動詞やらをさかんに活用して、さらにペラい言語をトートロジカルに力んで重ねざるを得ず……って、これではまるで阿部和重じゃないか」(『現代小説のレッスン』)。*1
 だが阿部の文体には、クズを上から見下ろすウェットな嫌味はない。主人公の妄想=観念の累積を常に滑稽化しユーモア化する文章感覚が混じる。特に若いバイト男性どものダメさ・クズさへの愛情が溢れる。(とはいえ、それでも阿部的文体のダラダラな「ユーモア」が時に別のブラインドに陥る点は別の場で述べた。)


 曖昧な不機嫌さを漲らせ、自他共に認めるクズ野郎のオオタタツユキ。バイト先の高級腕時計をパクったのがばれ、危機にある。オオタは、ある「男」と、デニーズでたまたま相席に。男は妻の浮気を疑い自宅に監視カメラを。店内でも液晶テレビで監視を続けている。オオタは男の中に自分と同種の負け犬性を嗅ぎつけ、近親憎悪か、男を罵倒し、憂さを軽く晴らすが、オオタに散々罵られた男は血相を変えて「半殺しだろ?俺にだって出来るよ。出来るんだよ!それ(液晶テレビ)、置いてゆくから、見ててよ」と店を飛び出る。
 「鏖」では、デニーズは村上春樹アフターダーク』的なロマンチックな恋愛発動の場ではない(『アフターダーク』では「デニーズ」とカッコが付く)。無意味な偶然の遭遇から、くだらない暴力の発動へと。その過程に必然はないが、くだらなさがくだらなさを呼び、暴力へ至る。しかも、オオタは、男による妻・愛人襲撃の場面をモニターで見てもいない。金属バットを手に血だらけで戻った男はその事実を知り、更に逆上する。「何なんだよ!冗談じゃないよ!どうするんだよ!俺はやっちゃったんだよ!お前が見ていると思って、おもいっきりやったんだぞ!どうするんだよ!どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだよ!」。
 「鏖」の文体はやや弛んでいるが、阿部はクズ人間を最初からクズ人間として設定する。そこでは、クズ人間が真剣にまっとうさを目指す故に却って底なしにクズさを重ねる他ない陥没性も、クズ人間が八方破れの無茶苦茶なアクション故に偉大さ・崇高さへとぎりぎりで転じていく光景も、ない。クズは単にクズのままだ。だが、作者の視点は決してクズ野郎どもを嘲笑しない。愛情を込めつつ滑稽化する。「鏖」では、クズが他のクズを動員し、くだらない暴力を炊きつけ、発火させる。いつもの阿部的パターン(ダメ人間の苛立ち→妄想の肥大化→暴力の発動→その滑稽化)とはやや違う手触りがある。かといって優れた人間が一般人を意識的に操作するのではない(佐藤友哉の「陰謀」観はむしろ古典的)。鬱屈した魂が鬱屈した魂とネガティヴに発火しあい、たまたまの出来事の連鎖から《暴力》が生じていく、その「動員」の発生現場を、この小品はかすかに捉える。『シンセミア』へ繋がる原型的パーツが幾つもあるが、この動員的な「気分」の行く先を見定めたい。


 ……ダメだ、上手く書けなかった。



 

*1:石川の批評は見事で、特に「吉本隆明の大衆の位相をめぐって」『孔子の哲学』は素晴らしいが、根本の疑念もある。それは別に書く。