移動の自由のこと・・(3)

 注文した・・


http://www.aigo.or.jp/menu01/archives/001000other/001162.html


 移動の自由は、むしろ自由の条件でしかない、と今さら気付いた。


 移動介護の使い方は人それぞれだが、大雑把に、一方に親のレスパイト型があり、他方に本人の外出支援型がある*1
 (まず、今手元にデータがないけど、川崎市は全国的に、支援費のヘルパーをかなり大量に使った自治体だという。逆に言えば、支援費の移動介護の恩恵と負の面をはっきりと受ける自治体になるだろう。)
 要件云々とは別に、親のレスパイト偏重の面はあったし、今もあるし、全てが悪いなんて絶対言えない。統計データは無いが、月72時間等の大量の移動介護を利用する人(その家族)に、その傾向は強い。福祉が家族含みの日本では、親の支援/本人支援を安易に別々に考えられないけど、それでも親子の自由の矛盾がくっきりあらわれる面。当事者からも、支援費の偏り(格差)として時に批判される。
 とはいえ、後者の本人支援型の外出、当事者の地域・社会進出(の欲求)が掘り起こされた、まっとうなノーマルな状況に近づいた面があるのも絶対に間違いない。特に、ポテンシャルも意志もあるが、物理的なチャンス(機会)だけが無かった人々を、地域にひらいた。自宅以外との繋がりが皆無・希少な当事者で、家庭内に身体介護(入浴その他)でヘルパーが入ったのをきっかけに、在宅での第三者とのコミュニケーションから徐々に欲求・意志が昂じ、移動介護へ結びついた面もある(移動支援が本人の身体・生存能力の持続にも効果があるという当事者の意見には、先にふれた)。施設入所者が、ヘルパーとの外出を目的にグループホームへ生活移行した例も知るだけでいくつかある。


 グランドデザイン・障害者自立支援法は、もう障害当事者の社会参加・移動の自由・ノーマライゼーションを積極的にはうたわない。支援の必要は入浴・排泄・食事等の「生存」ベースに特化される。それ以外は自己責任・家族責任で勝手にやってくれ、と。1割負担する位なら移動介護は要らない。給付抑制。ある意味でこれはまだいい。問題は、当事者とその家族が、「移動の自由は福祉の対象にならないのは当然だ」と思い込んでしまうこと、この水準での移動の自由(自由の必要条件)は確保されなくて当然だ、と草の根の非ノーマルな思い込みを断ち切れない点だ。最低限の合意と確信にならない。仕方ない、と押し流される。


 来年10月から移動介護は事実上廃止され(地域支援事業化され)、個別給付としては行動援護・重度訪問介護が残る。行動援護・重度訪問介護については今も実体がはっきりしない。地域支援事業の部分は、自治体の方針ごとに格差が大きくなるだろう。
 ただ、10月でストンと区切られるのではなく、来年4月から移行が徐々に(軟着陸的に)始まる。大して時間も余裕もない。当事者や支援者だけでなく、行政側も同じだろう。区分認定や1割負担のどさくさに紛れて、気付いたら移行の渦中に置かれる。そんな感じだろう。
 支援者は、既にそれをある程度見込んで支援体制を整えねばならないけど、不確定要素が確かに多過ぎる。それでも、先を見据えて支援を行わねばならない。

*1:【後記】「実体としては」という意味。