これらの人間には、生きようとする意志も死のうという意志もない・・
立岩真也は、尊厳死・安楽死思想の根っこに、「自分の身体を自分で統御できないから」「他人に迷惑をかけるから」という圧力を見ている。では、あの「働かざるもの食うべからず」という労働観は、尊厳死・安楽死的な圧力と、どう関わり、どう関わらないのだろうか(ミシェル・フーコーとか)。フリーター/ひきこもり/ニートへのバッシング等を調べながら、特に非労働力層の極限といえるひきこもり者への苛烈で何の歯止めもないバッシングを見ていて、以前からそれが気になっていて、たとえば、安楽死肯定の原型的書物と言われる、一九二〇年の『生きられるに値しない生の抹消の認可』に収められた、カール・ビンディングという人の次の言葉を見て、やはり無関係には思われないのだった――
「これらの人間には、生きようとする意志も死のうという意志もない。彼らには死ぬことへの同意は全く認められないが、彼らを殺害することは、生きたいという意志には抵触することが全くない。彼らの生は全く目的を欠くが、彼らはこの生を耐え難いものと感じてはいない」……(アガンベン『ホモ・サケル』より孫引き)
このことを、左翼的被害妄想(あるいは滑り落ち理論)とは違う形で、切実かつ冷静に問うてみたいと思うのだけれど、さて。