リベラリズムその可能性の中心(の、ためのノート)(9月14日)

 id:chikiさんの「9.11選挙と新たな時代。」(http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20050914 )。


 chiki氏から長大なレスポンスをもらった。率直に感謝します。以下、思ったところを整理しつつ、少し述べます。


 chiki氏は、東浩紀の議論を踏まえ、今後は「多様性への配慮」がポイントと述べる。
 重要なのは、ネオリベラルな人々も「多様性」を否定しない事実だ。つまり問われるのは多様性の質である。ねじれているのだが、多様性を肯定する思想が結果的に――おそらくは自己決定論というチョウツガイを通して――極端な排他性へと帰結する、ことはありうる。ありうるばかりかしばしば目にする。例えば暴力の影が駆逐された平和なゲーテッド・コミュニティのホテル内で、武力ではなく理性的対話を、とにやにやおしゃべりに耽る知的スペシャリストどもの国際平和会議の「豊かさ」を考えてみよ。
 「小さな政府」が実現すれば、過剰な公務員がスリム化され国民全体の税負担が軽減される、のかどうか。逆に、「小さな政府」はたんに市場主義の推進と「小さな給付」を目指す再分配抑制政策であり、自分達の、子ども達の未来の年金・保険料の手薄さとして跳ね返ってくる、のではないか。ここ(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050809)でも少し書いた。これは素朴な、誰でも分かることだ。奇妙なのは、後者のリアリズムを知りつつ、前者の「小さな政府」と郵政民営化の効力に強烈に魅かれる人々の心性の側である。


 チョウツガイの位置には「自己責任」という言葉がある。
 自己責任という言葉は、それを使う・使われる人の社会的ポジションで、全く意味が異なる。
 この分岐点を見つめたい。富者にとってそれは自分の現状正当化とさらなる欲望のドライブを意味し、貧者にとってはそれは責任の押しつけと存在の切捨てを意味する。正反対なのだ。「奴らが得をするのはゆるせない(他者が得すれば自分は損するから)」という攻撃性と嫉妬の感覚が、「多様性への配慮」を上回る。だがこれは真のリバタリアンではない。「誰か自分でない人の利益は、自分の損を意味するという感覚。それが実証的にはほとんど関係なくとも、そうした感覚を扇動する。小泉は、私たちのそうした論理的ではない感覚に訴えることによって、支持を集めた。もちろん、感覚を煽るのに論理などはいらないのである。自分の損を嘆くことは、自分の帰属するものの損を嘆く。そして、自国の損を嘆く。行き着く先は愛国心であろう。自分の損を嘆くリバタリアン的側面と、自分の損=自分の帰属するものの損というコミュニタリアン的側面の両方が、小泉政権の特徴なのだ。わかりやすさは、必ずしも正しさを意味しない」(http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20050912/p1)。重要なのはこの分断と深淵が時と共にひろがっていくことだ。


 この不愉快な《気分》の感染と蔓延は何だろう。素朴に不思議に思う。
 自分以外の弱者を叩く弱者は、たんに弱者を憎んでいるのではない。「自己主張する弱者」をこそ憎んでいる。自分は別の被害者ども(障害者や難民や朝鮮人)に攻撃される無垢な被害者だ、と思い込む。そして自分を倒錯的に絶対化する(被害者意識→自己価値化)。「可哀想」という保護の感覚と「偉そうな口をきくな」という憎悪の感覚は、容易に反転する。
 本当はこの「被害者意識→自己絶対化(加害化)」という短絡的回路を断ち切り続けるところから、《弱者》をめぐるありふれた思考が始まると思うのだけれど。


 これに関しては確かに「聖域」はない、とまでは言っていいと思う。
 例えば「障害者福祉」の問題だけを論じる時、それは時に、その問題を共有しない人には届かない。《次のような問題が生じます。「局所的」に訴えることは成功するのか、ということです。当然のことながら、グランド・デザインについての話し合いがない状態では、局所的に障害者自立支援法案は廃案になっても精神保健福祉法32条の改変は行われた、ということは起こりかねません。「弱者の味方」を歌う党が「有害情報の規制」を主張しているという笑えない冗談がある現状ではありそうな話。大きく見れば局所的変化であっても、その層にとっては大問題で、しかしその「痛み」を他の領域では共有できない。もちろん、これは今までの社会でもずっとそうで、これからもその問題は変わらない、と言う事も出来るとは思いますし、突然明日から大きく変わる、というわけでもないでしょう。が、漸進的に「小さな政府」となっていく際、多くの人が懸念する理由のひとつはやはりそこでしょう。》


 リバタリアンリベラリストは異なる(ことにしておこう)。20世紀にそれらは次第に分岐した。その歴史は例えば同じくchikiさんの「リベラリズムを巡って」等を読めばいい(http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20040524/p1)。前者は人々の自由権を絶対化し不可侵とするが、後者は多様な人々の自由と平等の共存(分配)を同時に考える。どちらが正しいかは、今は問わない。徹底的に議論をつくせばいい(自分はリベラリズムを取る)。


 リベラリストは限定付きで国家の再分配システムを――ということはつまり、国家による税の強制徴収を――積極的に認める、が、国家による再分配を語る人が、ただちにリベラリストとはいえない、少なくともぼくの考える意味での「リベラリスト」ではない。共同体主義者や一国的福祉国家主義者=ケインズ主義者も――伝統的共同体の正規メンバーのみに与えられる――再分配を語るからだ。*1
 だが、ぼくの考えでは、スタート地点に障害者・難民・子ども・野宿者らの存在(の、多元性)を置かない「リベラリズム」は、全く意味をなさない。少なくともつまらない。
 社会契約論が全くリベラリズムと相容れないのは、それらがスタート地点に「契約・交換行為の可能な主体」を置き、そんな主体たちのみの間での都合いい合意と国家形成をフィクショナルに論じ、最後に微調整的に「弱者」の問題を論じることで、都合よくつじつまをあわせようとするからだ。全く欺瞞でしかない。以前から抱いていた疑念は、小泉義之の怒りの批評を読み確信に鍛えられた(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050830/p2)。しかし、こんな順序で議論を進めねばならないいわれは、どこにもない。端的に全ての多様な存在を見つめることから始めればいい。だがこの「多様さ」とは、奇麗事では全然ない。むしろ自分の骨身を削るような多様性であり、他者の存在の尊重だ(自分が餓死するかもしれない状況下での「分配」の問題を考えてみよ)。
 リベラリズムは、つまり、ある共同性に属するメンバーとその共同性に属さない外部の他者の問題、分配の対象となる他者/ならない他者の間の《分配》という難問を論じる。何かに都合よくフリーライドしている人間が、その人より明らかに困難な立場におかれた人を(だが生存の維持に不可欠なだけだ)「フリーライダー」として叩く光景を、心の底から拒絶したい。【文章のわかりにくい部分を、一部修正しました。】

*1:最後のぎりぎりのポイントで突然弱気になる自称リバタリアン連中も、社会的弱者への社会保障は消極的に認める、だがそれは立岩真也が述べるように自分が拠って立つ根拠を自ら掘り崩すことであり、端的に「自由」への信念が足りない。