ストローブ=ユイレ『ルーヴル美術館訪問』(2004年)

 殆どのショットがルーヴル美術館の絵画の固定ショット。あと数回のブランクと、2つの美術館外部の風景のショット、最後の森の中のショットはストローブ=ユイレ『労働者たち、農民たち』(2000年)の冒頭部分からの自己引用。『セザンヌ』と同じくギャスケによるセザンヌとの空想的対話テキストが朗読される。
 長々と映される絵画作品、そのセザンヌによる解説(の朗読)を見聞きし続けていると、次第にルーヴル美術館セザンヌによって案内されているような気がかすかにしてくるが、ある瞬間にふと我に返ると、ここで絵の解説をするセザンヌの言葉=朗読は、ギャスケによる空想や回想を交えた産物であり、少なくともセザンヌ自身の肉声やなまの考え方ではない。そこに戸惑うわけだけど、また暫く画面を見続け、朗読に耳を傾け続けていると、セザンヌ自身にルーヴル美術館を案内されているような気が…と、また我に返る。
 それを繰り返している内に、結局、こんな「声」に惑わされず「絵」それ自体を正面から見ろ、見つめ続けてみろ、セザンヌが風景を「見た」ように君達も自分の目で見てみろ、と脅迫的に言われているような気がしてくる。だから画面に映し出される「絵画」のみに視線を集中しようとする。
 ・・と、再び我に返り、そうだ、これはストローブ=ユイレという映画作家が(対象や映し方や時間の長さを)「選別」した作品なのだ、ここで「見る」ことを実践しているのはあくまでストローブ=ユイレの方であり、自分は彼らが撮影した画面を通してその対象=絵画を見ているにすぎないのだ、と。
 途中に挟まれる美術館の外部の風景のショットなどは特にその印象が強く刻まれるもので、「私たち」はこうやってセザンヌが風景を「見る」ことを過酷に実践したように「見る」ことを強靭に実践している、君達もそうやってみろ……と、この映画は、よりシンプルに、それを鑑賞する「わたし」に、そんな過酷な「見ることの倫理」という問いを突きつけているように思う(ダメだ、何てよくある月並な結論!)。