ストローブ=ユイレ『セザンヌ』(1989年)

 

 より。
 「作家論」はここまでむちゃくちゃにやっていいのか、と単純に驚いた。自分が何回も書き直している或る作家論を思い出しつつ。

 ありふれた言い方だけど、ストローブ=ユイレの『セザンヌ』は、殆ど「映画」とすらいえない異形のスタイルに達しながら、やはりジャンルとしては「映画」なのだった。これも驚きなのだった。
 ジョシュアン・ガスケによるセザンヌとの空想的対話テキストの朗読をベースに、セザンヌの絵画(のショット)、セザンヌの写真(のショット)、実在の(セザンヌが目にしただろう)風景、ジャン・ルノワールの映画『ボヴァリー夫人』からの部分的引用、ストローブ=ユイレ自身の映画『エンペドクレスの死』からの部分的自己引用、などが画面上で淡々と、重厚に展開される。しかし、それら全ての要素の繋がり=連関性は、見る者には、わかるようでよくわからない。例えばなぜセザンヌの絵画『ロザリオを持つ老女』のショットから、ルノワールの映画『ボヴァリー夫人』の引用へ切り替わるのか。なぜこの映画のこの部分が引用されるのか。いちおう説明はされるのだが、どこか不可解である。
 「絵画」と「映像」がジャンル的に本質的に混じり合わない、『セザンヌ』の画面はその重なり合わなさを露呈させている、というのとは少し違うと思った。例えば、『セザンヌ』は、セザンヌのサント・ヴィクトワール山を題材にしたよく知られた絵画をいくつか写す。他方で、実在の風景としてのサント・ヴィクトワール山をも写す。しかしこれは一方に実在の現実があり、他方にそれを写した絵画作品がある、というのともちょっと違う。ここで提示されているのは、おそらく、一つの現実ともう一つの別の現実(のちぐはぐさ、つながりそうでつながらないところ)なのだと思う。このちぐはぐさは、「絵画」と「映像」のレベルだけではなく、先にあげた複数のジャンルのあらゆる部分で多層的に生じている(そもそも画面に写されるのはセザンヌの絵画そのものではなく美術館に飾られているセザンヌ絵画をカメラで収めた「映像」である、当然だけど)。

 しかし他方で、一つ一つのショットには、引用の異様な長さを含め、ある絶対的な重み、「これしかない」という感覚が込められている(ように感じる)。
 ストローブは、何故この映画に『エンペドクレスの死』からの二箇所の引用が含まれるのか、と聞かれて、セザンヌの「光が、大地や太陽光線の物語が誰に描けるのか……?誰に描写できるのか?」という「問い」に答えるために、「それを成し遂げたものが実際にいる」ことの証明として、エンペドクレスを選んだのだ、と言っているそうだ。それだけの重みを込めてストローブ=ユイレは『エンペドクレスの死』からの自己引用を行っているわけだ。セザンヌの問いに正面から答えるには自分達のこの作品の、この場面しかない、というような。これは朗読一つをとってもそうで、『ルーヴル美術館訪問』では、ジュリー・コルタイという人がセザンヌ部分の朗読を行っているが、ストローブ=ユイレが彼女に渡した朗読用のテクストには、音楽の総譜のように、リズムから息継ぎから文と文の合間まで、発声法の指示がことこまかに記されていたという。こんなふうに一つひとつの要素にはある絶対的な重み、「これしかない」という感覚が込められている(ように感じる)にも関わらず、それらの要素の繋がり=連関の内的な必然性は、少なくともぼくらには、明確には掴めない。ずれやちぐはぐさの印象ばかりを感ずる。

 はっきりいって、これが「セザンヌ」に関しての映画=作家論であるかどうかもよくわからなくなってくる。しかし、ストローブ=ユイレは、あたかも「これこそがセザンヌだ」と、ある絶対的な確信を突きつけてくるのだった。【一部文章を改めた。17日】