対抗的九〇年代?

 今月12月号の『現代思想』(特集1990年代論)所収の毛利嘉孝さんの「対抗的九〇年代」という論考が、杉田の本をかなり長めに批評している。
 杉田の本の「運動的」「能動的」「構成的」なポテンシャルを意図的に引き出した文章で、単なる紹介ではなく読み替え=批評になっていて、「フリーター的なもの」の流動性や日本特殊性を押さえつつ、それを野宿者・外国人労働者・だめ連・ストリートカルチャーの文脈に接木していく(あとトムスンとかネグリヴィルノとか)。ぼく自身にはよくも悪くも決してこういう書き方は出来ません。
 新評論http://www.shinhyoron.co.jp/)さんから先日頂いた『ネオリベ現代生活批判序説』を横に並べつつ、自分がかつて毛利さんらの『カルチュラルスタディーズ入門』(ちくま新書)からかなりインパクトを受けていた記憶を思い出した(「批評的世界」の何処かで書いたのですが、見付からない)。ある種の肯定性・楽しさ・いい加減さがないと思考はダメになる、云々と書いた気もする。今の自分に何故そういう面が無いのか、欠けるのか、(毛利さん的な意味での)「社会運動」を――よくも悪くも――欲求しないのか、というか運動的な欲求や享楽をそのままでは信じていないのか、を考え直したいと思った。