小泉義之『病いの哲学』の、とくにとりとめもない、感想



病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)



 3章(レヴィナスと臓器移植論、臓器・肉体の分配のラディカリズム、「生き延びる籤」)の議論を刺激的に読んだ。
 偶然性と分配を巡って、もともと、功利主義系の人々が展開するサバイバル・ロッタリーや眼球くじのことは気になっていた。
 立岩データベースから。


 ……《すべての人に一種の抽選番号(ロッタリー・ナンバー)を与えておく。医師が臓器移植をすれば助かる二、三人の瀕死の人をかかえているのに、適当な臓器が「自然」死によっては入手できない場合には、医師はいつでもセントラル・コンピューターに適当な臓器移植提供者の供給を依頼することができる。するとコンピューターはアト・ランダムに一人の適当な提供者のナンバーをはじき出し、選ばれた者は他の二人ないし、それ以上の者の生命を救うべく殺される。》(Harris[1980=1988:170])


 「最大多数の最大幸福」を取るから、「1人を殺して2人を助ける」ことは正義だ、等という話になってしまう。小泉さんは明晰にこの「犠牲の論理(誰かを助けるために誰かを殺す)」を引き算し、全員を生かすためのくじ引きのみを「断固肯定」する。
 単なる財や資源の分配だけにとどまっていいわけではない、臓器移植・肉体の分配は「人間の使命」だ、という小泉義之の主張には、凄みがある。 小泉はもともと《糧》という概念をぎりぎりまで拡張していて、食糧だけではなく、人工呼吸器や経管栄養などを含め分配せよ、と言っていた(「無力な者に(代わって)訴える」)。その時点で既に「臓器移植」を含めていた。『病いの哲学』ではさらに一歩、肉体の分配を巡るくじ引き=偶然性への洞察をステップボードにし、認識のラディカリズムを突き進める。


 でも、他方で「譲渡可能なものは譲渡可能なもので分配する」「譲渡不可能なもの(身体能力・スキルなど)も譲渡可能なもので代替する」という部分の漸進的調整は、甘く見れない気がする。素朴に。神話的暴力と神的暴力のみわけがたさ、決定不能性(全員生き残るか全員死ぬかだ)が、小泉さんの言い知れぬ魅力ってことはよくわかるのだけれど。
 例えば小泉さんが、生死に関わる臓器の移植などのみならず、眼球の分配を肯定する論理がよくわからない。それはADL主義とどう違うのか。端的に、眼球を分配するのではなく、眼球=視力が無くても平等に日常生活を送れる環境を留保無くめざすだけでよい、っていうかそれはもちろん十分すぎるほど困難で至難なわけで、それ以上の困難を求める理由はない、と思う。(コーエンは、眼球クジへの反発を、私的所有権(眼球は自分のものだ)を根拠にするのではなく、「個人の生活に対する破滅的な干渉」への反発から述べているらしい。)


 そもそも、生存くじにせよ眼球くじにせよ、科学技術が超高度化した「臓器移植を完璧に行なえる社会」を想定しているのに、(クローンその他に頼らず)「臓器や眼球を無から生産できる」社会をなぜ思考実験的に想定しないのか、がよくわからない。『ドゥルーズの哲学』その他の生命・自然哲学からも、こちらのありふれた結論しか考えにくい。科学技術的に達成可能なものはたんに科学技術的に達成すればいいんじゃないか。ドゥルーズ論ではそういうことを述べていたと思う。臓器や肉体という本来分配不能なものの分配、譲渡不能なものの譲渡を考えるのは(これは立岩真也『私的所有論』がそこで引き返した領域だ)、その先でいいんじゃないか。実現可能性は自分には何の知識もなく、申し訳ないけれど、哲学の水準ではそうだろう。


 平等論の根幹には、社会的偶然性=「たまたま」をめぐる強靭な洞察がある。ロールズリベラリズムのベースに置いた「相互性」の原理も、そう。どんな立場に生まれても(例えば障害を持って生まれても、難病にかかっても)その生を肯定できる社会こそが社会的に公正だ、と。例えば「資源(resources)の平等」をいうドゥオーキンは、「選択の運」と「自然の運」を区別した上で(前者の、例えば株式など、自分で分かっていて選択した物事の不運は補償されない)、お金や基本的財だけではなく、身体的能力・労働スキルなど、たまたま個々人に付与されたもの、個人の責任を厳密には問いえないもの、他人に譲渡不能なものの不平等こそが、ぎりぎりのところに残る社会的補償の対象たりうる、とする(『平等とは何か』)――例によってすごいうねうねした文章とロジックなんだけど(特に生れついての障害者への補償を述べるところなど)。そんな譲渡・移転不可能なものを、どうやって、譲渡・移転可能な資源として補償していくか、これが問題となる、と。
 ドゥオーキンは、資源の水準と選好の水準を基本的に区別し、前者の平等を言い、後者は各人の自由意志の領域に任せる、という。「もし彼がこのこと【自分の嗜好が高価すぎる嗜好であり、かつそれを自分が選べば他の人の資源が大きく損なわれること】を知りつつ、より高価な人生を選択したならば、彼はこのような【資源の平等の】補償を受けるに値しない」(81頁)。
 確かにアーヌスンがいうように(ローマー『分配的正義の理論』参照)、一見個人的な選好の水準が、社会的要因によって非自発的に決定されること、これはごく普通にある。社会的構築主義とも関わる。だとしても、全ての選好や趣味が社会的強制力によって決定されている、という極端な決定論を取らない限り、資源/選好を区別するドゥオーキン的区別は、残り続ける。というか、幸福と倫理の位相を明確に分離するカント的な厳密さを取らなくても、後者の位相をそこそこ残しておくことが、各人の自由意志を確保することの必要条件ではないか。境界設定の曖昧さを十分に認めつつも、境界線については議論され、個別的かつ暫定的に決定されうる。


 それと、5章で、いわば病人の絶対主義、当事者の絶対主義を、断固として言い切っている(川口有美子さんがそれを言った人は自分の周りでは過去に2人しかいない、と仰っていたけど)。そんな病者の文化=「下位文化」は、逸脱と排除の世俗的循環構造を断ち切る絶対的外部にある、という。その意味で絶対的な「排除と放置」が肯定される。これは危うい議論でもある。でも、当事者の絶対性は、贈与の絶対性によって裏づけられる。つまり相対的な分配や調整ではなく、絶対的な贈与を受ける資格がある、と(「あとがき」では無条件に年額1000万円と具体的数値が出てくる)。「あとがき」ですぱっと述べられる「プラン」を見て、なるほどな、と思った。 でも、どうなんだろう、とも素朴に思ってしまった。


 あと「中間考察」でのデリダ『死を与える』の読解は、少し浅い気がした。デリダの贈与論は、むしろ、贈与という行為の中に「犠牲のエコノミー」を断ち切る契機を探るものだと思う。というか、デリダの論は、贈与の絶対性が不可避にエコノミーの相対性へと陥っていく、しかしそれを瞬間的に断ち切るところにしか正義(脱構築)はない、という感じだと思う。その意味でデリダの思考も「決定不能なゾーン」の絡み合いから立ち上げられている。『法の力』のベンヤミン批評もそうだった。小泉さんの「真の当事者主権」は、ちょっとそれとは違う気がした。