「みんな潰れてしまえばよい」

 引用箇所以上の言葉も怒りも、自分の内側にはありません。ご免。*1
 川崎市の障害計画課は、地域生活支援の移動サポートは、10月から、「民間の事業者」から「ボランティアの活用」へ移行する、と明言した。議会でも、利用者にも。川崎市の提示した単価は、全国的にも最低基準に近いらしい。
 事業所は、利用者からも行政からもせめられるだろう。そして、小規模多機能だかなんだかでうまくやれる他事業所からも。
 それだけではない。同じ事業所内の、生活条件が違う職員からも、暗に非難されるか、同情とともに放逐されていくだろう。給料がいらないか小遣い程度で生活できる、主婦・夫、引退層、学生層が残るだろう。
 「知的障害者児者の地域生活支援をやっている事業所なんて、みんな潰れてしまえばよいのである」。
 この言葉は正しい。かなしい。「やれてしまってきた」ことが、状況をなし崩しにしているのだから。「いや、君たち事業者は降りれるけど、障害者は障害者であることから降りられないではないか」。その通り。全く正しいです。でも、それは「降りる」なんて生易しいものなんですか。身も心も魂もへとへとにすりきれるまで酷使され、使い捨てにされていく人を、自分から「降りた」とは、少なくとも私には言えない。もういい、と思う。
 でも何よりかなしいのは、地域生活支援系の事業所が「みんな潰れ」ようが、その時も本格的には「何も起らない」(仲の良い利用者やその家族がちょっとばかり同情はくれるだろう)、と私たちが完璧に予感しているからだ。「およそ一人の主張は、賛同をえられれば前進が促され、反対されれば、その奮闘が促される。たった一人、見知らぬ者の中で叫んで、さっぱり人々に反応がなく、賛同もされず、また反対もされねば、あたかも果てなき荒野に身をおいたように、手のほどこしようがなくなってしまう。それはどんなにか悲しいことか。かくて私の感ずるものは寂寞となった」(魯迅『吶喊』「序文」高橋和巳訳)。

http://d.hatena.ne.jp/lessor/20060825

 今日も自治体担当職員と話す。さらに嫌な話が出てくる。とても冷静にはなれない。頭を冷やす前に、おもいきり感情的に書く。
 知的障害者児者の地域生活支援をやっている事業所なんて、みんな潰れてしまえばよいのである。無理して運営などすることない。年収200万にも満たない給与で働いている職員が全国にごろごろいる。自分は年収150万だ。お国は、これさえも多いとおっしゃるらしい。まだまだ削れるところがあるのだと。もっと合理的に効率的にやれと。これ以上、削れるものなどないはずなのに、さらにクビを切ったり、給与を下げることで守られる利用者の生活はたしかにあるだろうが、職員の生活はそれ以下ではないか。
 すべてがつぶれて消えてなくなったらどうなるのだろうか。まずは事業者は利用者から責められるのだろう。無責任と言われ、その程度の気持ちだったのかと言われ、運営能力がないと言われ、工夫が足らないと言われるだろう。運営が順調な事業者やNPOも同じように罵るに違いない。もともと福祉の世界は楽に稼げていて、経営センスが足らないのだと。もっと自主財源の確保のために努力をすればいい、福祉の勉強ばかりしていないでもっと違う勉強をした方がいい、福祉系の学生なんかより他の社会体験を積んで来た者のほうが仕事に対して厳しく、しっかり金だって稼ぐことができる云々。
 事業所が血祭りにあげられた後、次に利用者は大挙して自治体にでも押し寄せるだろうか。厚生労働省財務省や国会議事堂を取り囲んではくれるだろうか。もし取り囲んだとしたら、それを世間は笑うだろうか。弱者が吹き上がっているのだと。既得権を守ろうとしているのだと。歳出を削減しなければこの国はやっていけないのだと。もっと他に金をかけなければいけないものがあるのだと。
 あとに残された方法は何だろうか。暴動か、親子心中か。それもちょっとやそっとの規模じゃダメだ。そんなものはこれまでにだってたくさんあった。連日トップニュースや全国紙トップを飾るぐらいでないとダメだ。ワイドショーも情報番組も連日無視できないぐらいでないとダメだ。障害者福祉をネタにすると、視聴率があがり、部数が伸びるぐらいにならないとダメだ。マスコミがこぞってこの国の貧しさを責め、国民みんながセーギの味方となって、障害者福祉に金がつかないなんてけしからんと興奮するぐらいでないとダメだ。暴動はきっと世間に迷惑のかからない形でやった方がいい。国民の怒りの矛先はいつだってお上と金持ちであるから、ターゲットを間違えてはダメだ。心中は世間の同情をひくのにぴったりだが、残念ながらあまり報道されない。衝撃的なやつが必要だ。被害者が知的障害をもっていると報道しにくい、なんていう配慮にマスコミがとらわれていられないくらいのやつでなきゃダメだ。ネット心中で集まって死んだって、今や話題性はない。そんな死に方を選ぶ者も世の中にはいるんだという程度の認識で終わらせちゃダメだ。すぐに事件を風化させてもダメだ。じゃあ、どうすればいい?
 どこにも味方がいない。味方がいない者の逃げ場はどこにあるだろうか。闘いから降りれば、味方なんて必要もなくなる。ただ、空しい。闘いから降りられる者は、降りられない闘いの中にいる者からどう見えるだろう。敵や味方なんて区別をなくしてしまえば、楽になれるかもしれない。誰にも悪意などなく、皆が望ましい社会を目指して必死なのだと思えば、いくらか気持ちは穏やかになれる。誰も敵にまわすことのないあの人はものわかりのいい大人だと思ってもらえるかもしれない。しかし、心の安静が生活を救うわけではない。心は心でしかない。
 苦境の中で現状を正当化させ、自らを納得させることは、ときに容易い。それは大人の思慮か、敵前逃亡か。自分の立場を強固に主張しないことが大人の美徳なのだとしたら、そんなものには憧れない。

*1:ちなみに私自身は、ろくな戦力にもならずにNPOの障害者ヘルパー・コーディネーター・その他雑務で、年収200万を若干超えている。これにライター系の副業=複数業で、月平均5万円程度の副収入がある。恵まれている(公務員に准ずる社会福祉法人系事業所はともかく、介護保険の民間事業所で中堅のケアマネの手取り月収が17万円とかはザラだ)。ここ数年、次の致命的な切迫が呪いのように自分を絶えず脅かし続けた、正確には、切迫を真の「切迫」とさえ感じられない弛緩と無感覚が自分を「ヨーグルトが発酵しそうなぬるま湯に、肩まで浸かって上から蓋をされているみたいに」(貴戸理恵)しめつけ続けた、「しかし自分に取って、どたん場まで行かなかったことが仕合せといえるのかどうか?結局おれは、精神の貧弱さから知らず知らずどたん場を避け、また他の場合には、外からの偶然がどたん場につき当ることから自分をよけさせ、こうして、「窮地」に落ちることなく一生過ぎてしまうのではないか?幸福といえる幸福、不幸といえる不幸を経験することなく、時々の小さな幸福を幸福と感じつつ、時に時々の小さな不幸をいくらか勿体ぶって不幸と感じつつ、人間として低い水準をずるずると滑って行くのではなかろうか?」(中野重治『歌のわかれ』)。