東浩紀の「児童ポルノの単純所持禁止問題」への違和感



 【追記】font-daさんの→http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080214/1202980795が、ずっと優れた東記事へのコメントをすでに書かれていた。そちらを参照して下さい(2008年2月20日)。


 以下、メモ。


 まず東は擬似こどもポルノの全面禁止の問題【C・2】については、「そちらにはあまり危機感を抱いていない」「日本では規制推進派のあいだでも、マンガやゲームまでひっくるめての禁止があまりに非現実的で、法外な結果を引き起こすことはあるていど知られているからだ。日本でマンガやアニメのロリコン表現が全面的に抑圧されることは、おそらく近日中にはないだろう」と述べて、話を終える。


 その上で、「三次元、いわゆる実写の児童ポルノの問題」【C・1】についてのみ意見を述べる*1。論理は以下の通り。


 (1)「児童ポルノの制作や販売は固く禁止すべき」。理由は「児童の性的虐待を防ぐため」。
 (2)「しかし、単純所持を禁止するとなると厄介な問題が生じる」。なぜなら「欲望は裁けない」(殺人の欲望と殺人の行為のあいだには無限の距離がある)から。
 (3)すると、児童ポルノの単純所持を禁止する論理は何か。一般に二つある。
 (3a)児童ポルノの鑑賞は現実の犯罪を誘発する、したがって禁止すべきだという論理。
 (3b)児童ポルノの所持はポルノ制作者への金銭の移動を意味する、それは間接的に児童の性的搾取の支援になっている、したがって禁止すべきだという論理。
 東は、(3a)は「論理の説得力は疑わしい」と述べ*2、(3b)について「強い説得力がある」と述べる。それは「この論理で行けば、児童ポルノの所持や購入は、道徳がどうとか、欲望がどうとかいうこととは無関係に、とりあえず暴力団やテロリストへの資金的援助と同列なので禁止するべきだ、という話になる。実際、いまアングラな児童ポルノを制作している連中が、かなり気合いのはいった犯罪集団であることは疑いない」と。


 しかし、この(3a)(3b)という選択肢の中で議論を進めることには、ひっかかりがある。


 そこには、ポルノの被害者である当のこどもが、そのポルノの存在によって二次的三次的に受けていく被害(3c)への眼差しがないのではないか。
 あるいは、子どもポルノが存在し続けるという「事実」によって、間接的な被害を受ける人々(例えば過去に同種の性暴力を受けたサバイバーなど)(3d)――たとえば街中でポルノ的な広告・写真・雑誌の表紙を目にするだけで痛みを受けるように――への眼差しがないのではないか。
 こどもポルノ・擬似こどもポルノを批判する人々は、そもそも、そういうことを含めて、ポルノの存在を批判しているのではないだろうか。たんに「キモいから禁止すべきだ」という偏見=オタク差別が、批判の根拠ではないだろう。東氏は論点を矮小化している。また批判の根拠は、「ポルノは犯罪を誘発するから禁止すべき」というだけではない。繰り返すが被害者が被る性暴力の問題である。東氏の議論には、なぜか、この単純な事実がぬけおちている(それは東氏のエロゲー論の盲点とも関係があると思う)。たとえば東氏は、「ぼくもひとりの親として理解できる」と述べるけれども、自分の娘さんが仮にそういう性暴力の被害にあわれたとして、そのポルノを見知らぬ誰かが所有し、かつ、個人的にのみ観賞していたとしても、――仮にその事実を東氏が原理的に知りえないとしても――、そういう「事実」があること自体を、やはり許せないのではないか*3
 東氏は繰り返し「欲望は裁けない」と述べる。しかし、「私的な欲望を抱くこと」と「欲望を表現/商品化すること」は違う。ポルノはすでに客観的実態を伴った媒体・商品だ。私的な欲望、個人の中にとどめられた欲望とは違う。「ある個人が子どもポルノを観賞すること」と「子どもへの性的な欲望を(自分の私的な欲望として)抱くこと」は、イコールではない。


 「こどもポルノ」には、「成人のポルノ」の是非には回収されない、過剰なおぞましさがある。
 それをたんに、「子どもの性的自己決定権」の有無の問題に回収するのも、間違いだろう。たとえば、成人のポルノ出演の自由=性的自己決定を容認し、かつ、子どもには性的自己決定がある、と認める人ですら、児童ポルノの正当性については同意しない、という可能性は少なからずありそうだ。ではその+αの部分には何があるのか。
 それはまずは
 (1)こどもに成人と同じ「自己決定する主体」を想定することは本当に正しいのか
 ということに関わる。
 しかし同時に、仮に(1)が正しいと言えたとしても
 (2)大人/子どもの関係性は、対等な(合意・契約のできる)関係ではなく、そこには非対称な暴力性(強要・洗脳・搾取など)が前提としてある、という蓋然性が非常に高い
 という圧倒的な事実は残るだろう。ポルノの制作・販売過程にはこの(2)の水準が入っている可能性が高い。東氏の議論だとこの暴力性はあたかも「暴力団やテロリスト」「犯罪集団」の話に限られそうだが(そしてそのことで、それ以外の一般人を免罪するロジックにもなりえるが)、実際はもっと広範に、日常的なものとして広がっている。つまり、「普通の」大人たちも加担している問題である。たとえば森岡正博は、モーニング娘。やジュニアアイドルたちの、「親」の暴力を批判し、それを児童虐待の一つと見なすべきだと提案している。
 (仮に(1)が言え、(2)の暴力性を全て除去したとしても、それ以上の別の何か(3)が残ると思うのだが、これについてはまだ論じる準備がない。)


 しかし東氏の議論は、「(1)制作時に児童虐待と無関係であり、(2)合法的に(つまりそれぞれの国の猥褻条項に抵触せずに)制作・販売され、(3)そのことが周知徹底されているので購入や鑑賞行為が虐待の支援になるとは(前述の強力効果説を使うことなしには)どうやっても言えない、そんな児童ポルノが存在するのであれば、それは制作しても消費してもまったく問題ない、という話になるのではないだろうか?」という部分をみても、子どもの性的な自己決定権をある程度暗黙の前提としているところがあるように見えてしまう。しかし必要なのは、「議論の前提の議論」であるはずだ。


 というわけで、児童ポルノの単純所持の処罰化については、反論する理由をぼくも思いつかない(あるなら、どなたか教えて下さい)。しかも、東氏があげる理由(3b)のみならず、それよりも一層強い理由(3c)(3d)から、処罰化は主張されるべきだと思う。



*1:追記。正確には、東氏の議論の本丸は、現実/虚構の決定不能ベクターなどによって技術的に促進されていることをめぐる論点にある。ぼくはこの点に関しては、「(技術的に)二次元が限りなく三次元へと近づいている」面と、「(現実の人々にとって)三次元と二次元のリアリティ・意味・価値の決定不能性が進んでいる」面があると思い、そこに別の論点が現れていると思う。これはまた別に考えてみたい。

*2:追記。否定派は「子どもポルノは観賞した人の性犯罪を助長させる」と述べ、容認派は「むしろ、実際に子どもに性暴力を振るうかも知れない人が、子どもポルノを観賞し欲望を満足させることで、現実的に犯罪を犯すことを抑制しえている」と述べる。これはポルノ全般に関してずっと議論されるところだ。客観的な真偽・妥当性はぼくにはわからない。というか、それは決定できないし、わかる必要もない、と思っている。重要なのは、むしろ、それらの加害者への「影響」をめぐる否定/容認の対立以前のところで、そのポルノの存在自体がすでに暴力として機能している、という事実にある。

*3:追記。しかし、東氏であれば、「しかしそれでも容認するしかない」と言い切るかもしれない。