欲望について



 このわたしの欲望はある部分、生物的本能的なものであるし、ある部分、社会的に構築されたものでもある。「人間の欲望は必ず○○の傾向を持つ」とは単純にいえない。ところで、欲望は、社会や他者の影響や操作によって駆り立てられる部分があると同時に、自分たちの手で自分たちをそのように仕向けている部分もある。欲望は愉しいもの、肯定的なものとは限らない。時に自分たちを包囲し、苛み、苦しめる。「よい欲望」と「悪い欲望」の線引きができるとも思われない。欲望は複数的なものだから。すると欲望にはどうにもならない部分があると同時に、自らの手で統御・変更・書き換えのできる部分が常にあることになる。子どもの性的自己決定は可能か、と問われる。しかし、そのとき逆照されるのは、成人こそが《性的自律》できているのか、ということだろう。性暴力にはどこか人間の深いところに根ざした不可避なところがある。しかし、それを統御・変更・書き換えていくこともまた、人間の中に不可避にある別の傾向性ではないか。両者は鬩ぎあっている。まずはそれを確認しておく。


 それを確認した上で。
 しかし問いはその先に(も)ある。
 それでも人々は他者を性的に虐待し陵辱し続けてきた。性暴力には、一般の暴力よりもさらにおぞましい過剰さがある。人の人格は性とイコールではないが、性には人格と深く結びついたところがあるからである。まずは認めたいのは、他者のそのような性的核心をこそ破壊し陵辱したいという欲望、その魅惑と享楽が、一部の性犯罪者のみならず、私達の、このわたしの中にもある、という事実である。それをまずは認めることから、次の一歩がはじまる。しかも、性暴力の魅惑と享楽は、なぜか、子どもへと向けられていく。くりかえすが身体に物理的に加えられる通常の暴力(a)と、他人の性的人格を破壊する性暴力(b)には、何か本質的な違いがある。さらに直観的に、成人への性暴力に比べて、子どもに対する性暴力(c)には、一層おぞましい何かがある。そしてそうであればあるほど、そのおぞましさの方へと魅惑されていく傾向が――しかも、たんに倫理的に否定し尽くせないものとして、いや否定してはいけないものとして――人の中にはある。ありそうに思う。


 このようなところからさらに考えてみたい。