性暴力化する社会



 引き続き、子どもポルノについて。


 森岡正博氏の愚直な提言は、考えるに値する。

 《それは社会のロリコン化についてである。現在の日本のテレビや雑誌やインターネットには、女の子たちを性的な視線で眺め回すような商品がたくさん出回っていて、数多くの大人がそれを購買し、消費して楽しんでいる。呼応するかのように、12歳までの子どもへの性犯罪もここ数年増加傾向にある(警察庁調べ)。その点に目をつむったまま、小児性愛者だけをしたり顔で批判しても、それほど説得力はないのではないか。
  速水由紀子は、ロリコンは日本の「国民病」になったと指摘している。これが誰の目にも明らかになったのは、モーニング娘。が話題沸騰したころからであろう。彼女たちへの視線がきわめて「性的」なものであり、12歳前後の女の子のイメージがいかにして性的商品として堂々と販売されたかについては拙著『感じない男』でも詳述したとおりである。》



 『感じない男』でも森岡氏は、モーニング娘。ミニモニ。、あるいは11歳や9歳の少女アイドルの写真・映像に露骨に込められた性的アピール――たとえば牛乳=精液を飲むイメージ――の意味にふれている(第4章)。上の記事で取り上げられるのは8歳(!)の女の子のDVDである。森岡氏は、こどもへの性暴力sexual violenceを、一部の性犯罪者の問題にとどめず、ロリコン化していく社会全体の問題、「犯罪には至らないが、しかし心の中にロリコンの気持ちが存在する男の心理」(125p)の問題として考えようとする。宇佐美氏の論考にもあるが、性暴力の意味を複合的に見ようとすることは、国際的な流れでもある。


 森岡氏は、わが子を性的な写真集・DVDなどに出演させる親を「一種の虐待とみなして規制すべき」と提案する。
 ごく常識的な目でみれば、日本で大量に出回っている子どもを被写体とした写真集・DVDなど(のある部分)は、はっきりいって、「こどもポルノ」以外の何ものでもない*1森岡氏はそれを「仮面をかぶった少女ポルノ」と呼ぶ。重要なのは、どこからがポルノでどこからが芸術・エロチカなのか、という線引きそれ自体にはないと思う。あるいは少なくとも、それ以前のところにあると思う。あまりにも露骨であまりにも剥き出しになっている現実が、なぜ見えないものになっているんだろう。わかるようで、よくわからない。
 かりに子どもポルノ容認派が「子どもポルノの販売・購入は許される」と主張するなら――価値判断は別にして――わかる。それならば、そのことを争点にすればよいだろう。たとえば「子どもにポルノ出演の自己決定権を認めてよいのかどうか?」を議論することができる。けれども、「これらはこどもポルノではない」というスルーの仕方は、事実認識として、おかしい。というか、おそらく、目の前にある事実を事実として認知できないポルノ消費者のメンタリティに、問題の根があるのではないだろうか。


 定義や法的規定「だけ」の話をしているつもりはない。たとえば虐待abuseとはいわゆる身体的虐待に限られるない。もっと広い概念である。このことは日本でもずいぶん浸透しているだろう。性的虐待にも多様な意味がある。日本の「児童虐待防止法」では、児童への性的虐待は「児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること」と定められている。しかし、虐待被害者の支援団体などは、「強姦」「わいせつ」などの法的定義に必ずしもとらわれることなく、当事者(子ども)の立場を尊重し、児童性的虐待を綜合的な暴力のあり方としてとらえている。「同意可能な年齢以下の子供に対し、性的に成熟した大人が子供に対する通常の社会的責任を無視し、大人の性的満足に至る行為を持つこと、もしくは他者が持つことを許可する場合を性的虐待という。強制的な方法で行われたかどうか、また行為が性器及び身体の接触を伴ったかどうかは問わない」(SCOSAC=性的虐待を受けた子供に関する常任委員会)。


 わが子を性的な写真集・DVDなどに出演させる親の行いは「一種の虐待とみな」した方がよい、という森岡氏の提案に、ぼくは同意している。
 子どもポルノの購入者・消費者にも、同じことが言えるだろう――法的処罰をめぐるプライヴァシー侵害/国家権力強化/誤判・冤罪などの危険性については慎重に考えたほうがよいとしても、だからといって、それらが、子どもに対する性暴力への間接的な加担であるという事実は、動かない。そこに難しい問題があるからといって、間接的な性暴力・性的虐待が現にあり、ぼくらが日々それに加担し続けているという事実は消えない。それを「ないもの」「なかったもの」にはできない*2。とりあえず、ここまでは確認できるはずだ。


 反論として、所有者の「プライヴァシーの権利」、表現者の「表現の自由」が言われる。国家・警察・司法の権力が拡張されてしまうことの危険性、誤判・冤罪の危険性が言われる。
 これらの人権擁護や危機感の主張は、もっともだと思う。ただ、それだけでは、どうもよくわからない。これらを主張したからと言って、肝心の性暴力自体が消えてなくなるわけではないのだから。これらの人権は、特権的な免罪符にはならない。これは法律家の間でも諸議論のあるところである。くりかえすけれど、上のような消費・観賞を通した性暴力は――暴力ではあるけれども――仕方ない、許される、それらよりも個人のプライヴァシー・表現の自由、消費者の権利の方が優先されるべきである、と主張するならば、これはわかる。あるいはたとえば、国家による法的規制ではなく条例あるいは民間団体・NGOなどの力で規制もしくは対処していくべきだ、などの具体的な判断が組み込まれているならば、これもわかる。論理は一貫している。しかし、それらに一切ふれずに、一方の人権や危険性だけを述べて、自分たちが加担している別の暴力をスルーしていく態度は、どうもよくわからない。


 それらの「権利」の名のもとに子どもへの性暴力という現実をスキップする人々は、「消費者の権利」(自分たちが愉しむ権利)を無自覚に主張しているケースが多いのではないか。女の子の性的イメージを消費したい、純粋な快楽を得たい、気持ちよくなる権利がある……。
 しかし、消費者・サービスユーザーの権利が無制限に認められるべきだろうか。


 ちょこっとは、問題の根が見えてきたような気がしてきた。
 問われねばならないのは、《消費者主権が増幅させる性暴力》ではないか。
 これは典型的な「暴力の自己消去」の構造だ。
 自分が加担・行使した他者への性暴力を、暴力と認めない。被害者=他者の存在を消し去っていく。本人にも非があった、無意識ではそれを望んでいた、自分の責任じゃないか、だから犠牲者なんてそもそもいないんだ……。


 これはレイピスト(強姦者)のロジックそのものではないだろうか?


 暴力の構造として考えるなら、子どもポルノだけの話ではない。ロリコン化する社会というより、レイピスト化する社会と考えた方がよいのかもしれない。ロリコンペドフィリアについては「個人の性的嗜好」の水準にとどめられることがありうるが、レイプはすでに暴力への加担・行為の水準にある。ロリコンという言葉は、両者の違いを見えにくくしてしまう。
 もちろん、現実的なレイプ被害と「セカンドレイプ」(この言葉には是非があるが)や間接的被害とを、簡単に同列におくわけにはいかない。強姦・レイプの過剰さが過小評価されてしまう。ただ、ぼくは、集団ストーカーや陰湿なセクハラ&パワハラをふくめ、(見かけはいわゆる性器の挿入も身体的接触も無いような)間接的な(性)暴力によって、自分の精神をじわじわと破壊されていく人々を、何人か見てきた。そのとき思い知らされたのは、直接の暴力と間接的暴力、どちらが本人にとって致命的なダメージとなるのかは、必ずしもはっきりとはわからない、ということである。複雑でいりくんだ交互作用が見られることもある。このことを確認することは、強姦・レイプによる暴力を過小評価することではない、とぼくは思う*3


 ではここから、ぼくらの欲望を、どう考えていけばいいのか。(続く)


感じない男 (ちくま新書)

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*1:国際連合の「児童の売買等に関する児童の権利条約選択議定書」によれば、「児童ポルノ」とは「現実の若しくは疑似のあからさまな性的な行為を行う児童のあらゆる表現(手段のいかんを問わない。)又は主として性的な目的のための児童の身体の性的な部位のあらゆる表現をいう」と定められている。ちなみに「児童・こども」の年齢を法的に何歳と定めるかについては各国でバラつきがあるが、近年は「18歳未満」で統一されつつあるという。また日本の「児童買春・児童ポルノ処罰法」は、次のいずれかを満たすものを児童ポルノとする。「児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態」「他人が児童の性器等(性器、肛門又は乳首)を触る行為又は児童が他人の性器等(性器、肛門又は乳首)を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」。(日本ではマンガやゲームなどの擬似ポルノは対象外である。)

*2:追記。目の前にあからさまにあるものをなぜか見ることができないこと。しかしそれを自分は「あえて」見ないのだ、といいくるめること。たとえば東浩紀は、エロゲーを論じるのに性暴力の問題をスルーし(→http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070628)、ゲーム的リアリズムの問題を論じるのに「労働」の問題をスルーする(→http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070618)。これはまた別に述べる。

*3:正直、この記事を書く上で、一番悩んだポイントはこのことだったのだけれど、結局書くことに決めたのは、松浦理恵子の「レイプくらいで女はへこたれない」という文章の存在を、田村光啓「レイプ神話と「性」」(『現代文明学研究』、第1号(1998))を読んで知ったからである。たとえば「レイプとは女性の最大の屈辱であり、人格の破壊である(必ず、全ての女性においてそうであらねばならない)」という議論もまた逆の「神話」かもしれない。それは、むしろ、性暴力の複数性を吟味するための条件だと思う。