フリーターに関する20のテーゼ



【1】日本型のフリーター労働者は、ある種の「階層」である。


【2】1980年頃から、国際的に若年不安定労働層が大量に生み出され、今も増加し続けている。
 日本型フリーターは、働きながら潜在的には永続的な失業状態にある。フリーター/ニート/ひきこもり/不登校者/野宿者…は、社会構造上はごく近いポジションにある。フリーターの数は、資本と国家の流れに従う限り、今後も確実に増え続ける。この流れは、放っておいては食い止められない。


【3】若年労働者は今後間違いなく、一部の「勝ち組」と大多数の「負け組」へと二極化してゆく。
 それだけではない。フリーターの内側にも「勝ち組」と「負け組」が分岐する。資本・多国籍企業・国家の側は、意図的にこの二極化の流れを推し進めている。


【4】フリーターの一定部分は、このままでは野宿生活者化するだろう。
 現時点でフリーターが野宿生活に「転落」せずに済むのは、その多くが自分の若さを売りにできるか、親へ住居・生活財を持続的に依存できるからだ。しかし、時間が経てばこの二つの安全ネット、「若さ」も「親」も消える。その時、フリーター層はその裸の姿をむき出すことになる。


【5】しかし、フリーターは真の「最下層」ではない。
 最悪なのは常に自分たちの経済生活ではない。よりひさんなのは常に別の他者の側だ。さらに、フリーターは時代の無垢な「被害者」ではない。自業自得の面がある。フリーター階層もまた別の誰か――より弱い立場の誰か――の生活を収奪している。そんな加害感覚に生理的に苦しまない限り、私たちは誇大な被害者意識から逃れられない。そのことでむしろ、より弱い別の他者の生存を損ね、収奪に加担してしまう。


【6】「フリーターは諸悪の根源だ」的な悪罵と非難は、今後も世論の中で醜悪にふくれあがるだろう。
 たたかいのラインは経済・労働面だけではなく、メディア・イメージの水準にも引かれる。フリーターの非正規な働き方は、非国民性のあらわれと見なされる。正規雇用者たち(とその家族)がフリーターをことさら憎悪し恐怖するのは、むしろ、彼ら自身の生活と存在が正当な根を欠くこと、何の根拠もないことの裏返しであり、投影でしかない。つまり、問い(課題)は分有されている。


【7】フリーター問題の根もとには、女性労働者の問題がある。
 フリーターの反対語は、高度成長期型の「男性正社員」だ。男性正職員を長期安定的に年功処遇し、その妻は専業主婦かパート労働者とする。法律や税制がこれを支える。企業の雇用の形が、そのまま、戦後型の「家族」の形を決定する。するとフリーターは、大企業からも戦後型家族からも生活面で疎外される。


【8】考えるべきなのは、賃金格差や社会保障の格差だけでなく、仕事内容の格差――そこから生じる未来の衣食住の決定的格差――である。



【9】若年層に関する限り、正職員かフリーターかという対立は、ニセの対立にすぎない。
 両者は構造的に同じコインの裏表にすぎない。偶然の状況=「たまたま」に応じて簡単にひっくり返る。相互に批判し敵対することで、いたずらに魂を消耗し、憎悪や愚痴を深める。私たちはニセの「対立」を破砕し、本当にたたかうべき《敵対者》を見出さねばならない。


【10】統計的に、フリーターに陥りやすい層、フリーターからなかなか抜け出せない層がある。
 (「日本人」に限っても)女性、より年齢が低い人々、学校中途退学者、親の家計の豊かでない――塾費用や進学費用がまかなえない――人々などである。


【11】若年層の多くは、今のところ両親に経済‐生活財的にパラサイトし続けている。このことを自己検証的にえぐり出さないフリーター論は、意味をなさない。
 その上で、同時に、高度成長期の恩恵を享受しえた世代の既得権死守を十分に疑うべきだ。とりあえず「若年世代」対「既得権益世代」の間に敵対性のライン、攻防線を引く。


【12】だが「若年労働層」も「既得権益層」も共に、自分たち以外の他者が強いられた生存の問題を真剣に考えてはいない。
 それは容易に「自分たちだけよければいい」という生活保守、そこそこの消費と安楽の維持を望む身内主義に陥る。フリーター層の場合、それは両親へのパラサイトとしてあらわれやすい。たとえば未来に生れる《子ども》の生命を、目の前に無限に存在する《弱者》のことを、誰が真剣に考えているか。


【13】現在の若年フリーター集団の多くは、他のマイノリティ集団(たとえば外国人労働者/障害者/野宿者/…)たちの生活と存在から遠く離れ、断絶し、孤立している。


【14】それだけではない――一つのフリーター「階層」としての自覚を、当事者達が分有することも少なく、実質的に同じ底辺労働層に属するのに、互いに曖昧に切り離され、孤立した生存を続けている(属性は共有するが課題は共有できない)。
 正確に言うと、真の意味での「個人」になるチャンスを逃し、漠然たる群れとして癒着し、行政や識者やメディアから《フリーター》という柵で囲われ、無秩序にうごめいている。しかし、常識とは逆に、他者との持続的なネットワーク化の先に、ようやく真の「個人=ひとり」は削り出される。「ひとり」で地に足をつけるのは、極めつきに難しい。自分たちが現に生きる「階層」の自覚と地勢図は、外から(学者やら研究者の手では)与えられない。自らの実地調査と自己検証を通じて発見され、勝ち取られる(しかもその「階層」の認識=地図自体が、現実の多元的折衝の中で、また現に生きる〈弱者たち〉の本当の多様性に直面し、次々と変更され書き換えられていく)。


【15】ネオリベラル(新自由主義的)な価値観のもとでは経済的な貧しさは、そのまま本人の道徳的な「悪」と見なされ、自業自得とされる。
 今や人々の多彩な生存は、文化的でも政治的でもなく、経済的なサバイバルの次元へと特化される。楽しむこと、よりよく生きることは「贅沢品」となる。


【16】表現や消費の自由は、むしろ、生産関係(所有の次元)の不自由や抑圧を覆い隠す。
 刹那的な消費活動への没入、生来の「個性」の肯定、狭隘なタコツボ的趣味への情熱過多、「愛さえあれば何もいらない」風の恋愛至上主義…これらはそのままではニセの自由、空想の自由に過ぎない。未来なき生活の過酷さが、人に空想の自由を依存症的に強いる――本人は本物の幸福を享受しているつもりなのだ!


【17】高度成長型の「労働者」や「家族」は(なくなるのではなく)変質の過程にある。
 このプロセスはもっと苛烈に、ラディカルに推し進めるべきだ。だが、選択肢は三つに分岐する。
 ①日々連続するアイデンティティ不安に耐えかね、失われた過去の安定、一層強固な生活の安定を急進的に求める。②対米従属のもと蔓延するネオリベラルの論理を受け入れ、高度に専門化された「勝ち組フリーター」の道を選ぶ。③なだれ落ちる時勢の濁流に押し流され、低賃金でフレキシブルな「負け組フリーター」へとなし崩しに転落する。
 そのままでは、多くの労働者が③の底辺フリーター層の泥沼から逃れられない。重要なのは、この否定的な生存の条件を、真の「自由」へ取って変えることだ。従来とは「別の(だがありふれた)」働き方と家族関係を求める。性分業を地盤とした家族とは別の家族のスタイルを探る試みなしに、私たちは別の労働のスタイルを探ることはできない(人々が「適正生活水準」に軟着陸するだけで、社会問題のかなりの部分が自然消滅するのではないか?)。


【18】具体的なたたかいに際しては、想像上の「敵」(エネミー)と現実的な《敵対者》(アドバーサリー)を、完全に区別し続けねばならない。
 私たちはニセの間違ったたたかいに没入してはならない。その時歴史の勝利者は何度でも勝ち続け、無傷で生きのび続ける。正しい《敵対者》の姿を正確に捉えるには、最高度の警戒と現実の継続的な分析を要する。いわんや、それとたたかうとなれば!


【19】極端に言えば、フリーターの生には《何もない》――少なくとも、資本や国家が要求するようなものは。
 両親世代へのパラサイトという安全ネットがはぎとられた時、フリーターは真の《何もなさ》という真空に向き合うことになる。にもかかわらず、あるいはそれゆえに、一生フリーターのまま幸福に生き切ることは誰にでも可能だ。この一見不可能なテーゼを――空想から遠く離れて――長期的に実践するための条件・制度・対策を具体的に考える。資本や国家の呪縛から一定の「自由」を確保し続けるための生存の技法を見出したい。


【20】今後のたたかいの主戦場は《存在権》――生存が単に生存であり続けることを肯定する権利――をめぐるものとなるだろう。
 存在を抹消し、この世からなかったことにする権力=暴力と、それに抵抗するラディカルなエナジーの間の(見えない/むき出しの)闘争になるだろう。前者はますます陰湿に、狡猾に、だが圧倒的に勢力を高めている。消し去られていく側の存在、多元的な存在たちは、もはや黙ってすべてを放置するわけにはゆかない――フリーター階層の権利宣言、権利を勝ち取るための持続的なたたかいが不可欠となる。しかし、そのたたかいのスタイルは、何重にもねじれざるをえない。共同体道徳であれ他者倫理であれ、従来の多くの哲学は、「自分のため」か「他者のため」のどちらかしか考えて来なかった。
 大切なのは、日々の労働と生存の継続を通して認識をわずかに転回、分岐させること。「自分だけよくてもダメだ」という信と共に、現状分析と未来への提言を推し進めるために、まずは一歩を踏み出してみることだ。


chiki氏のコメント、再び(9月16日)

 「自己決定(選択自由)を認めない自己責任論/かくも不自由な新自由主義」(http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20050916/p2)


 優先順位(プライオリティ)が言われる。「ものごとには優先順位があって、最大多数の最大幸福となる部分から解決していくべきだ」とされる。そこでは弱者(たち)の問題は後回しにされる。例えば、弱者の問題ばかり考えていたら、諸外国との国際競争にうちかてない、全体の国益が押し上げられれば底辺層の人々の生活も結果的に押し上げられる、と。
 しかしこれは何の優先順位か。要するに財源を投入すべき対象、の優先順位のことだと思う。財源には限りがある、だから優先すべき事項がある、と。


 例えば次の言い方がしばしば福祉分野ではなされる。当事者の自己決定権、ニーズ、それは大切だ、しかし財源には限りがあるから全ての自己決定権、ニーズを満たすことはできない……。
 しかし、この「財源がないから仕方ない」という言い方は、結果的に、「あなたの自己決定権はこの社会の中では認めない」と言い切ることと完璧に等しい(立岩真也がどこかで、もちろんこういう強い調子ではなかったと思うけど、そんなことを述べていた)。その点は踏まえておいた方がいい。


 すると「すべての必要な人に、必要なものを」という「完全平等」の原則は、財源の有限性にも関わらず(それゆえに)、財源論的プライオリティというリアリズム(?)を破壊してでも主張されるべきである。そうなる、はず、だ。そのことは財源を大事にすることと矛盾しない。
 多く取りすぎる人の問題、少なくしか取ろうとしない人の問題、は残る。しかしそれらを理由に前者の「完全平等」の原則を手放す必要があるとは思われない。
 結局、優先順位をいう財源論は、それを主張しても自らの生存を掘り崩す心配のない人々が、自己正当化を主張しているにすぎない。そういう人々が「現実的であれ」とリアリズムきどりで口にする。「最大多数の最大幸福」にはなから自分が含まれるとわかっている連中が「最大多数の最大幸福」を口にするとすれば、やはり恥知らずになる。それが悪いとは思わない。ただ、自己正当化したいなら自己正当化したいと素直に口にする公平さは、せめて、せめて必要だとは思う。


 chiki氏は自己決定権/自己責任を区別し「自己責任と自己決定は本来セット。ところが一元的価値がキープされたまま、自己決定権が奪われている状態で自己責任のみを押し付けるのは明らかにフェアではない」と書く。
 しかし、問題は、「自己決定権」が確保された時にも残る。というか、そこにこそ本当に難しいフリージング・ポイントがある。
 「あなたは自分で決定したでしょ?失敗したのは自分の選択の結果だから、あとは自分で何とかしてね」と他者から言われる場合、だけ、ではない。
 例えば安楽死尊厳死について、周りの制止や「生きてほしい」という願いにも関わらず、本人が「いや、やはり自分は(周りに迷惑をかける位なら/自分の身体を自分で制御できなくなる位なら)死を選びたい、選ばせてもらいたい、それをあなた達にも尊重してほしい」と言う場合、である。自己決定で奴隷を選ぶ、臓器の販売を選ぶ、売買春を選ぶ、等の問題にも言えるし、もっとささいで日常的な場面にも様々なかたちでこの問題はある。
 自己決定という言葉には常にあやうい両義性がつきまとう。


 自己決定権は、常に機会均等論(構造改革)とセットで語られる。平等なゲームの元では敗者が生れることも仕方がない、と。
 だが真の機会均等とは何か。このことはあまり問い詰められない。でもそこを明らかにしないまま機会均等+自由競争がいわれる。誰かの既得権で自分は損してる、と。郵便局職員だけではなく、野宿者や障害者や難民(認定がおりないから、難民以前の難民)も「既得権層」に映る。あいつら何もしないでいい目ばかりみやがって、と。こんな自由競争論は現状肯定以外の何ものでもなくなる。新自由主義者の不徹底さは、自分が得たものを全て自分の独力の成果と信じ込み、真摯に自らの既得権を疑い得ない点にある。たかだか相続権の廃棄、を主張した程度で既得権(の転移の構造)を否定したことにはならない。道路や建物一つとっても、一定の能力をクリアした「人間」の全てが無条件に享受し続ける権益が確実にあるからだ。

リベラリズムその可能性の中心(の、ためのノート)(9月14日)

 id:chikiさんの「9.11選挙と新たな時代。」(http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20050914 )。


 chiki氏から長大なレスポンスをもらった。率直に感謝します。以下、思ったところを整理しつつ、少し述べます。


 chiki氏は、東浩紀の議論を踏まえ、今後は「多様性への配慮」がポイントと述べる。
 重要なのは、ネオリベラルな人々も「多様性」を否定しない事実だ。つまり問われるのは多様性の質である。ねじれているのだが、多様性を肯定する思想が結果的に――おそらくは自己決定論というチョウツガイを通して――極端な排他性へと帰結する、ことはありうる。ありうるばかりかしばしば目にする。例えば暴力の影が駆逐された平和なゲーテッド・コミュニティのホテル内で、武力ではなく理性的対話を、とにやにやおしゃべりに耽る知的スペシャリストどもの国際平和会議の「豊かさ」を考えてみよ。
 「小さな政府」が実現すれば、過剰な公務員がスリム化され国民全体の税負担が軽減される、のかどうか。逆に、「小さな政府」はたんに市場主義の推進と「小さな給付」を目指す再分配抑制政策であり、自分達の、子ども達の未来の年金・保険料の手薄さとして跳ね返ってくる、のではないか。ここ(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050809)でも少し書いた。これは素朴な、誰でも分かることだ。奇妙なのは、後者のリアリズムを知りつつ、前者の「小さな政府」と郵政民営化の効力に強烈に魅かれる人々の心性の側である。


 チョウツガイの位置には「自己責任」という言葉がある。
 自己責任という言葉は、それを使う・使われる人の社会的ポジションで、全く意味が異なる。
 この分岐点を見つめたい。富者にとってそれは自分の現状正当化とさらなる欲望のドライブを意味し、貧者にとってはそれは責任の押しつけと存在の切捨てを意味する。正反対なのだ。「奴らが得をするのはゆるせない(他者が得すれば自分は損するから)」という攻撃性と嫉妬の感覚が、「多様性への配慮」を上回る。だがこれは真のリバタリアンではない。「誰か自分でない人の利益は、自分の損を意味するという感覚。それが実証的にはほとんど関係なくとも、そうした感覚を扇動する。小泉は、私たちのそうした論理的ではない感覚に訴えることによって、支持を集めた。もちろん、感覚を煽るのに論理などはいらないのである。自分の損を嘆くことは、自分の帰属するものの損を嘆く。そして、自国の損を嘆く。行き着く先は愛国心であろう。自分の損を嘆くリバタリアン的側面と、自分の損=自分の帰属するものの損というコミュニタリアン的側面の両方が、小泉政権の特徴なのだ。わかりやすさは、必ずしも正しさを意味しない」(http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20050912/p1)。重要なのはこの分断と深淵が時と共にひろがっていくことだ。


 この不愉快な《気分》の感染と蔓延は何だろう。素朴に不思議に思う。
 自分以外の弱者を叩く弱者は、たんに弱者を憎んでいるのではない。「自己主張する弱者」をこそ憎んでいる。自分は別の被害者ども(障害者や難民や朝鮮人)に攻撃される無垢な被害者だ、と思い込む。そして自分を倒錯的に絶対化する(被害者意識→自己価値化)。「可哀想」という保護の感覚と「偉そうな口をきくな」という憎悪の感覚は、容易に反転する。
 本当はこの「被害者意識→自己絶対化(加害化)」という短絡的回路を断ち切り続けるところから、《弱者》をめぐるありふれた思考が始まると思うのだけれど。


 これに関しては確かに「聖域」はない、とまでは言っていいと思う。
 例えば「障害者福祉」の問題だけを論じる時、それは時に、その問題を共有しない人には届かない。《次のような問題が生じます。「局所的」に訴えることは成功するのか、ということです。当然のことながら、グランド・デザインについての話し合いがない状態では、局所的に障害者自立支援法案は廃案になっても精神保健福祉法32条の改変は行われた、ということは起こりかねません。「弱者の味方」を歌う党が「有害情報の規制」を主張しているという笑えない冗談がある現状ではありそうな話。大きく見れば局所的変化であっても、その層にとっては大問題で、しかしその「痛み」を他の領域では共有できない。もちろん、これは今までの社会でもずっとそうで、これからもその問題は変わらない、と言う事も出来るとは思いますし、突然明日から大きく変わる、というわけでもないでしょう。が、漸進的に「小さな政府」となっていく際、多くの人が懸念する理由のひとつはやはりそこでしょう。》


 リバタリアンリベラリストは異なる(ことにしておこう)。20世紀にそれらは次第に分岐した。その歴史は例えば同じくchikiさんの「リベラリズムを巡って」等を読めばいい(http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20040524/p1)。前者は人々の自由権を絶対化し不可侵とするが、後者は多様な人々の自由と平等の共存(分配)を同時に考える。どちらが正しいかは、今は問わない。徹底的に議論をつくせばいい(自分はリベラリズムを取る)。


 リベラリストは限定付きで国家の再分配システムを――ということはつまり、国家による税の強制徴収を――積極的に認める、が、国家による再分配を語る人が、ただちにリベラリストとはいえない、少なくともぼくの考える意味での「リベラリスト」ではない。共同体主義者や一国的福祉国家主義者=ケインズ主義者も――伝統的共同体の正規メンバーのみに与えられる――再分配を語るからだ。*1
 だが、ぼくの考えでは、スタート地点に障害者・難民・子ども・野宿者らの存在(の、多元性)を置かない「リベラリズム」は、全く意味をなさない。少なくともつまらない。
 社会契約論が全くリベラリズムと相容れないのは、それらがスタート地点に「契約・交換行為の可能な主体」を置き、そんな主体たちのみの間での都合いい合意と国家形成をフィクショナルに論じ、最後に微調整的に「弱者」の問題を論じることで、都合よくつじつまをあわせようとするからだ。全く欺瞞でしかない。以前から抱いていた疑念は、小泉義之の怒りの批評を読み確信に鍛えられた(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050830/p2)。しかし、こんな順序で議論を進めねばならないいわれは、どこにもない。端的に全ての多様な存在を見つめることから始めればいい。だがこの「多様さ」とは、奇麗事では全然ない。むしろ自分の骨身を削るような多様性であり、他者の存在の尊重だ(自分が餓死するかもしれない状況下での「分配」の問題を考えてみよ)。
 リベラリズムは、つまり、ある共同性に属するメンバーとその共同性に属さない外部の他者の問題、分配の対象となる他者/ならない他者の間の《分配》という難問を論じる。何かに都合よくフリーライドしている人間が、その人より明らかに困難な立場におかれた人を(だが生存の維持に不可欠なだけだ)「フリーライダー」として叩く光景を、心の底から拒絶したい。【文章のわかりにくい部分を、一部修正しました。】

*1:最後のぎりぎりのポイントで突然弱気になる自称リバタリアン連中も、社会的弱者への社会保障は消極的に認める、だがそれは立岩真也が述べるように自分が拠って立つ根拠を自ら掘り崩すことであり、端的に「自由」への信念が足りない。