稲葉振一郎『「資本」論』は、恥知らずだと思う。(9月14日)

 上のテーゼのあとは当面新しいエントリーはしない予定だったが、あるゆるしがたさを覚えたので、少し前口上を書く。テーゼの初志ともつながると思われた*1


「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)



 こういう一見小利口な本が一番くだらない、と改めて痛感した。本人が自覚するように、稲葉氏は強固な自由主義者リバタリアン)ですらなく、せいぜいが微温的な新自由主義者ネオリベラリスト)の一匹に過ぎない。不安と罪責感でいっぱいの都市型保守心性の持ち主どもが、気休めと現状の正当化に読むには最適だろうが、書物のみを大量に並べて何かがわかったつもりになる論調は――本人がいかにも80年代チックな「あえて」「虚構として」を気取ろうが――、人が人生の貴重な時間を費やして真剣に熟読すべきものではとうていない。一つのむざんな「傾向」が剥き出しになったという点では、貴重な標本・サンプルとも言える。自分はこの人の教養のきっと100分の1もないが、だからといって遠慮する気は一切ない。教養の不足から見落とした部分を、賢しげな奴らに批判も手痛く打撃もされるだろう。だがそれが何ですか。いや、これは論証ぬきの前口上に過ぎない。仕事の都合が最優先なので時間はかかるかも知れないが、必ず本論を書こう。批評とは時に「子犬の遠吠え」だ。そして杉田はおそらくいまだ子犬ですらない。だが喉もとを、急所を一撃で噛み破る気概でやる。

*1:【註】テーゼ(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050911)への反応も一段落したようだし(もちろんその底には長期的展望があるので、何も区切などついてないが)、エントリーが長くなりすぎたので、『「資本」論』関係のエントリーを分離しました。

『「資本」論』論(1)(9月17日)

 まず識者の方にお尋ねしたい。この本のⅠからⅢ章までの、冗長な・持って回った・不明確な議論に、稲葉氏の何かオリジナルな視点、鋭敏な論点がひとかけらでもありますか。自分には読み取れなかった。あれば自分の誤解をまずは正します。つまり、批評すべきはⅣ章「「人的資本」論」、エピローグ「法人、ロボット、サイボーグ――資本主義の未来」しか見当らないと感じた。それらについて書きます。


 Ⅳ章「「人的資本」論」から引用する。

 人をあくまでも所有の主体として扱う統治と法は、たしかに財産を所有しない人をその視野から取りこぼしてしまいがちでしょう。しばしば現実に無産者、財産を持たない人という存在は出現してしまいます。しかしそのような場合でも、我々は無産者を、たとえば労働力=人的資本という財産を所有する主体として扱うべきだ、とここでは主張したいわけです。(略)


 これは一面ではもちろん欺瞞ですが、しかし単なる欺瞞ではありません。私的所有(それを前提とする限りでの市場経済、資本主義)の秩序は、人をまず第一に財産権の主体、財産を所有し、それをもとに他人と取引する――典型的には、財産を交換し合う――主体として扱います。そしてこのような財産所有者たちが、自らの財産権、つまり所有権とその所有する財産を取引する権利を守るために作った国家も、当然ながら人々をそうした財産権の主体として扱います。それはどういうことかと言えば、あくまでも人を財産権の行使の主体として扱い、「剥き出しの生」としては扱わない、ということです。財産権を行使し、財産というモノを使ってこの世界を生きる主体として扱うのであって、裸の動物として扱うのではない、ということです。(略)


 付言するならばこの理屈は、原則的には、普通の意味での雇用労働をなし得ない、重度の障害者である無産者についても(それが「擬制」であることを開き直って認めるならばなおのこと)あてはまります。そもそも、特定の障害をもった個人が、何であれ労働をなしえないかどうかは、生態学的、産業技術的、そして社会関係的な環境、諸条件によって左右されることです。周囲のサポートが、あるいは一定のテクノロジーがあるかないかによって働けたり、働けなかったりするだけのことです。仮に現状では働けなかったとしても、条件さえ整えれば働きうる身体として、その人の心身を労働力=人的資本と擬制することに対して、プラクティカルにはともかく、根本的で原理的な困難があるとは言えません。



 最初に溜息が来る。またもや、だ。
 膨大な議論の中で、わずかに一ヶ所、Ⅳ章の最後の部分に「重度の障害者である無産者」をめぐる議論が付けたし程度に添えられる(だがこの「重度の障害者である無産者」という表現もよくわからない、「重度の障害がある無産者」ならわかる)。事実、「付言するならば」、と稲葉氏は確信犯的に書く。
 しかもよく見よう。「この理屈は、原則的には、普通の意味での雇用労働をなし得ない、重度の障害者である無産者についても(それが「擬制」であることを開き直って認めるならばなおのこと)あてはまります」「その人の心身を労働力=人的資本と擬制することに対して、プラクティカルにはともかく、根本的で原理的な困難があるとは言えません」……と、具体的には何も述べていないに等しい空疎な「原則論」だけが、ここで言われている事柄の全てだ。「自分は原則論を言っているだけだ」。なんと都合のいい言い逃れだろう。こんな言い方が許されるなら、人は何を言っても「自分は原則論を言っているだけだから」と言い逃れられる。社会契約論的欺瞞と自己正当化が、この数行に(稲葉氏が「あえて」語らなかった空白の部分に)余す所なく剥き出しになっている。つじつまをあわせ、本格的な議論はスルーされる。あんまり露骨でいっそ爽快なほどだ。稲葉氏のロジックは結局、「重度の障害者である無産者」をいないも同然のもの、自分の議論を破綻させ屈折させるに足りないもの、と見なしたいだけだ。


 断定しよう。
 稲葉氏には、およそあらゆる種類の障害者に一人の知人・友人もいやしない。少しでも本気で障害者雇用の現場の問題、例えば脊椎損傷の人々とは異なる社会的文脈を持つ脳性麻痺系の人々の就労の問題、さらにいえば重症心身障害児者の置かれた状況の問題などをほんのわずかでも知っていれば、絶対にこんな空疎な・論理的に破綻した・目の前の現実の矛盾から都合よく目を逸らすのに適した・文章は、書けないはずだからだ。人倫がある限り書けない。だが仮に、仮にだが稲葉氏に障害当事者の知人・友人がいるとすれば、一層手に負えない、とも取れる。それは氏が現実の他者から何ものも真剣に学びえない、という無感覚と悲惨さをしか意味しないからだ。後者ではないこと、単なる無知と社会経験不足を心から祈る。
 まさかとは思うが、「付言するならばこの理屈は、原則的には、普通の意味での雇用労働をなし得ない、重度の障害者である無産者についても(それが「擬制」であることを開き直って認めるならばなおのこと)あてはまります」と――この曖昧極まる持って回ったいい回し!――明言した以上、あわてて「重症心身障害児者」の意味をネットで調べるなんて見苦しい真似はやめて下さい。一応忠言。その上で、もしあなたが「そもそも、特定の障害をもった個人が、何であれ労働をなしえないかどうかは、生態学的、産業技術的、そして社会関係的な環境、諸条件によって左右されることです。周囲のサポートが、あるいは一定のテクノロジーがあるかないかによって働けたり、働けなかったりするだけのことです」と本気で言い張るなら、現実が強いる諸矛盾や当事者の生存を抹消して「(それ)だけのこと」(!)と言い張るのであれば、せめて、せめてだが、ある特定の障害当事者が、ある具体的な状況の中で、どんなタイプの「サポート」「テクノロジー」があればどんなタイプの「労働をなし」うるか、一つでもまじめな具体例を挙げてみてほしい。
 他者を代弁=代行することではない。だが「他者を代弁すべきでない」という他者倫理も、それだけでは嘘だ。現場主義でもない。人は個々の《現場》の矛盾に巻きこまれうるだけだ。代弁しうる余裕ある人が、やむなく代弁しつつだがそれを代弁する自分の言葉を失語と沈黙に追い込んでいく他に《代弁》のしようがない、そういうありふれた他者の存在に突き当るだけだ。その矛盾に満ちた《現実》をダイレクトに掴まない資本論、私的所有論に何の意味がある?


 細かくなるがもう少しこの点を書く。言葉の曖昧さの水準だ。そんな文章は任意に幾らでも取り出せるが、目に余る部分を取り上げよう。例えばだ。これだ。そもそも「そもそも、特定の障害をもった個人が、何であれ労働をなしえないかどうかは、生態学的、産業技術的、そして社会関係的な環境、諸条件によって左右されることです。周囲のサポートが、あるいは一定のテクノロジーがあるかないかによって働けたり、働けなかったりするだけのことです」と極端な社会決定論=社会構成主義を躊躇なくぶちまけた次の文章で、何のつなぎもなく、「仮に現状では働けなかったとしても、条件さえ整えれば働きうる身体として、その人の心身を労働力=人的資本と擬制することに対して、プラクティカルにはともかく、根本的で原理的な困難があるとは言えません」と擬制主義(かのように哲学)を持ち出すとは、ロジカルに全く意味が通らないじゃないか。次。そもそもこの「生態学的、産業技術的、そして社会関係的な環境、諸条件」という意味不明の形容の並べ方はなんなんだ。次。「プラクティカルにはともかく」、それと切り離して、「根本的で原理的な困難があるとは言えません」とは何事か。こんなおためごかしのレトリックに耽って恥かしくないんですか。くだらない例題だけど、例えば「プラクティカルにはともかく」、紛争や難民の存在にも関わらず世界中の人間が平和に仲良く暮らせると「擬制」することに「根本的で原理的な困難があるとは言えません」と誰かが言ったとすれば、それがどんなに下らないか、わかりませんか。「ともかく」どころではない。
 一体こんな言葉を百万行連ねたところで、何がわかったつもりになるんですか。原理と実践は違うと言いたいのではない。実践の積み重ねから搾り出される「原理」以外に、どんな原理があるか、と問いたい。マルクスの『資本論』の魂を少しは読んでくれませんか。何の根拠もなく「困難があるとは言えません」と下品な政治家よろしく放言し失言する前に、現実の「困難」にせめてもう少し頭をぶつけて下さい。空疎な「経済学」に自慰的に満足せず現実の「経済」の苦しさに少しは巻き込まれて下さい。後者の感覚なしにマルクスの経済学=『資本論』はなかったじゃないですか。


 だが注意してほしい。ぼくは任意の一箇所を取り出し、一部を拡大し何かを過剰に叩いているのではない。
 これらの箇所に、稲葉氏の「傾向」が濾過され濃縮されているだけの話だ。ということは、稲葉氏は「無産者」の問題をも真剣に考えたことが一度も無い、ということだ。この点は後程「エピローグ」から症例を挙げ、読み解こう。必要なのはこの種の微温的修正主義の言葉を迎撃し、無産者の存在権をじかに肯定すること、存在がそのままで存在していいという確信を一層力強くおしひろげることだ。それをテーゼで述べた。


 そもそも稲葉氏はなぜ「人間」を「人的資本」として見なすのか。「人をまず第一に財産権の主体」と考えたがるのか。答えは「資本主義」を人間の不可避の生存条件と見なすから、でしかない。見よう。稲葉氏は、資本主義をある種の「公正な」「ゲーム」の類推で語る。

 市場における競争は、必ずしも「ゼロサム」「マイナスサム」ではありません。むしろ理想的な市場であれば、そこで行われる取引は全て自発的なものですから、基本的には「プラスサム」のゲーム、つまり取引参加者全員にとって、新たな価値を生み出すと期待されるからこそ行われるものであるはずです。ですからギャンブルの場合とは違い、市場の競争においてついてしまう格差は、たとえそれが増幅基調にあったとしても、決して厳密な意味での「勝ち負け」を意味しない。つまり、「より多く儲けた者の儲けは、より少なくしか儲けられなかった者から搾取したものではない」と言えるわけです。



 「そこで行われる取引は全て自発的なものです」「取引参加者全員にとって、新たな価値を生み出すと期待されるからこそ行われる」「より多く儲けた者の儲けは、より少なくしか儲けられなかった者から搾取したものではない」。
 ことごとくひっかかる、躓く他ない言い回しだ。
 しかも重要なのは、稲葉氏は「理想的な市場であれば」とこずるい留保を付すが、これが「現実をよりよい方向へ漸進的に改善する」ためではなく、現状肯定と正当化のために用いられる事実だ。事実、稲葉氏は「取引参加者全員にとって、新たな価値を生み出すと期待されるからこそ行われる」ような状況を目指す具体案を一つも出していない。上の理想状況を語ることが、結果的に曖昧な現状肯定にしかなっていないのは、そのためだ。*1


 注意しよう、稲葉氏が「我々は無産者を、たとえば労働力=人的資本という財産を所有する主体として扱うべきだ」と述べている事実に。「我々」が「無産者」を「人的資本」として「擬制的に」「扱うべきだ」と述べている事実に。彼はここで「財産のない者も我々のゲームに参加させてやろう」以外のことを言っていない。「我々」と「無産者」は完全に区別される。誰かを「あえて〜と見なす」権利は「我々」のみに常にある。「あえて〜と見なす」余裕も権利も剥奪された状態の他者の存在、「我々は君達無産者を人的資本として見なしてあげよう」と親切にも言われた時に、心からの異和も反論もあるが黙ってそれを受け容れる他にない他者の存在が見えない。
 彼はこの「公正なゲーム」=市場を不動の、所与の自然と見なす。あたかも社会契約論者が「自然状態」を仮構したように、だ(だが彼は後者を批判する自分の矛盾に全く気付かない)。ここでは、市場こそが「我々」の自然状態であり、例えば弱者に分配と贈与を与えることがあたかも「人工的」「不自然」な行いだ、という雰囲気が作為的に醸成される。現在の市場は歴史の中で「不可逆的」に生じたものであり、そこそこ世の中はよくなってきたではないか、と。それに反論を加える人はあたかも暴力的革命の信者かテロリストのごとき扱いを受ける。「我々=人間」に都合いい世界を「自然」として設定し、そこから排除された人々をさらに「あえて」「ゲームに参加させてあげよう」と取り込むこと。二重の暴力、おためごかしもいいところだ。
 例えば稲葉氏は「自由な市場とは取引を強制されない場所、もし可能であるならば、どのような取引を行おうと自由であるばかりでなく、したくないのであれば無理に取引に参加しなくてもよい、そのような仕組みではなかったでしょうか」と書く。稲葉氏の精神構造が致命的に欠くのは、強制力の感覚、何かを強いられるという感覚だ。「どのような取引を行おうと自由である」?「したくないのであれば無理に取引に参加しなくてもよい」?何というお気楽な立場か。売れない労働力をそれでも我慢して売り続ける他にない、したくない取引を屈辱に耐え笑顔を作ってしなければならない、そういう感覚が皆無なのだ。あまつさえ、ゲームには「不確実性」があるから、結果生じる格差は仕方ない、暴力や搾取ではない、といい気になって書く。だがあるのは不確実性ではなく、多元的な非対称性だ。勝ち負けではなく、勝つことも負けることも許されない人々が無限に、当り前に存在するという話だ。繰り返すが、これを少数派の問題として都合よくやりすごす態度をこそ、リベラリズムは徹底的に破砕する。


 次の箇所など怒りの震えなしには到底読めないが、自己責任論(負けたのは君の責任でしょ、誰も悪くないよ)の完璧な一例と言える。

 とりわけ結果的に絶対的な損をこうむってしまった人々にとっては、市場での競争はパレート改善的な仕組みであるよりは、あたかもホッブズ的な弱肉強食であるかのように見え、他人の儲けが自分からの搾取であるかのように感じられてしまうでしょう。(この場合も、結果的にはともかく、事前の期待のレベルにおいてはパレート改善的であったはずであることに注意。)



 「かのように見え」「であるかのように感じられてしまう」「であったはずである」……。ここにあるのは何か。
 ここには、この世には既に完璧な機会平等、「働けていない」人ばかりか「働けない」人をも包摂する絶対平等が実現している「かのような」前提で議論を進め、それに違和感を述べる人に「それは君の負け犬根性だろ」「ルサンチマンだろ」と自己責任を押し付ける、最悪の傲慢さがある。はなから十分な幸福に与かった多数派の人間が「最大多数の最大幸福」を主張することは恥知らずだ、優先権を与えられた優位な人間が優先順位(プライオリティ)の必要性を述べることは絶対に愚劣だ。
 心配なので念のために付け加えれば(私的所有や資本主義への異和を少しでも差し挟む人は、あたかも世界秩序を全否定し革命を目指す「共産主義者」であると見なされてしまいそうで)、資本主義の現状を不動の「自然」と見なさないことが、その全否定を必ず意味すると限らない。稲葉氏は心外だと言わんばかりに「我々は「所有なんかない方がいい」とは決して言うべきではないのです」と書く。だが、誰が所有を全否定したか。私的所有への異和を述べる者が必ず所有を全否定するわけではない。ただ私的所有の自己絶対化を否定するだけだ。平田清明立岩真也を歪んだ心根ではなく真っ直ぐ読めば、誰にでもわかる事実に過ぎない。【もう少し、続きます・・。】

*1:とすれば、大事なのは、何度も述べるが、杉田のフリーター論が「フリーターの現状の自己肯定」にすぎなくはないか、という自己検証となる。これについては本論を読み、皆さんに判断してほしい。

稲葉氏のコメント

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20050914

# ROY 『告げ口のようで気が引けるのですが、新刊への辛辣な批判=批評を見つけたので紹介。
稲葉振一郎『「資本」論』は、恥知らずだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050911/1126706904
まあ、稲葉先生ならば黙殺するのでしょうけれども。』
# shinichiroinaba 『気が引けるなら「告げ口」しないように。いったいなにがしたいんですか、あなたは。
実はこういう批判が出ることは当然予想しておりました。立岩さんか市野川君から来るかとも思ってましたが、若い人から来ましたね。立岩さんとの対談の続きで、このあたりのことはどの道かなり突っ込んで論じられることになるはずです。とにかく、1冊の本で何でもかんでも論じるわけにはいきません。
それに本を書いているうちに立場も変わることもあります。たとえば『存在証明』から『教養』ではかなり重要な変化があります。その観点からすると今回の本の欠点は、『教養』よりも『存在証明』にひきつけて読んでしまえる、ということでしょうか。杉田さんの批判が出てくる理由も、ひょっとしたらそれと関係あるかも。
多分この人からすればぼくは「転向者」という位置づけになるのでしょうか。ぼくもかつては、たとえば労働力の所有を連帯の根拠とする師匠の「友愛主義」論に対して、似たような疑問や苛立ちを覚えていましたし、また実妹は重度の障害者ですし。「転向者」の翳りを感じていただけなかったのはよいことなのか悪いことなのか。
信じてもらえるかどうかはわからないけど、はっきり言うとこの人のいうことにはかなり共感をおぼえます。だけど割と大事なところで「それじゃだめだ」とも思います。それはちょうど小泉義之さんの議論に対する評価とも重なってきます。しかし「転向」したぼくとしては、そういう「共感」のしっぽを匂わせるようなものを書いてはいけないのでしょう。徹底して「それじゃだめだ」というところをついていくのが、ぼくのなすべき仕事なんでしょう。その辺の甘さがこの人の癇に障ったのでしょうかね。
コメントではyanaseさんのご意見も拝聴に値すると思います。』

 稲葉氏の上のコメントを読み、ある悲哀を感じた。
 稲葉氏は「実はこういう批判が出ることは当然予想しておりました」と書く。「実は」「当然」「予想しておりました」。出だしから、これらの言葉にまず躓く。ここには他者の言葉を全て「想定の範囲内」に回収し内面化しようとする精神がある。例えばこの「実は」は、「君達には私の議論は○○とみえるかもしれないが、実はそんなものは全て踏まえたうえであえてこう書いたんだよ」という余裕の雰囲気をレトリカルにかもし出す。「当然」にも同じ効果がある。
 この余裕、あるいは余裕の偽装、はなんだろう。杉田の言葉が十全な強度を持ちえたか、はわからない。でも稲葉氏は杉田以外の他者の言葉、真に自分の急所を貫く切実な言葉に対しても同じ反応を示すのでは、という素朴な疑問はやはり湧く。どうなんだろうか。
 「それに本を書いているうちに立場も変わることもあります」という非常にあいまいな文章もそうだ。ここでは、文章ごとに自分の「立場」が変りうることがあっけらかんと述べられるが、同時に、それを書く自分の実人生自体の不動性が疑われていないように読める。二重に使用される「も」「も」がその印象を深める。稲葉氏は「1冊の本で何でもかんでも論じるわけにはいきません」と書くが、これは「議論の本位を定める」(福沢諭吉)ための不可欠な「自己限定」なのか、限定する自己を持たず状況に応じて自在に立場を変幻する無規定な自我のあらわれなのか。
 自分は「あえて」「わかっていて」○○するのだ、というイロニー(メタ)は全く言い訳や自己免罪にならない、とぼくは素朴に思う。メタ(超越)は状況に応じてすぐにベタ(内在)に転じる。両者が相互に入れ替わりうる回路の中にある限り、前者は後者への優位を意味しない。稲葉氏は「「転向者」の翳りを感じていただけなかったのはよいことなのか悪いことなのか」と書くが、杉田は既に最初のエントリーで「本人がいかにも80年代チックな「あえて」「虚構として」を気取ろうが」それは無意味だ、と明確に書いている。
 稲葉氏は「多分この人からすればぼくは「転向者」という位置づけになるのでしょうか」と言うが、そもそもぼくはそう思っていない。どうしてもそうは思えない。人が一つの立場を絶対的に信奉し没入し、現実の強固さと巨大さ前に決定的に敗北し、心を折られ、別の立場へ救いがたく転じていく。転向という経験をそういう意味で捉えるなら、むしろ問題は、一度も転向などしえない融通無碍の精神性、適当に傷つき適当に挫折は味わうけど真に何かから魂を傷つけられ失語することのない不死身の人格、のありようではないか。そのことを述べてきた。例えば宮台真司氏の「援交から天皇へ」というプチ「転向」には、ぼくはそんな痛みをかすかに感じる。それにダイレクトに共感はしないけど。
 ぼくはそれを「八〇年代的」と封じ込めるつもりはない。何故ならそんなジャパンな心性は今のぼくらにも確実にウィルス的に転移しているから。【24日、記】