《リスタート=脱落復帰》問題(仮称)



 正直、もう「誰が本当の被害者だ」「君達は本当の被害者じゃない」的な議論にはうんざりしている。ぼく自身がその弱者競争の消耗戦に加担した(している)事実も含め、足のひっぱりあい、悪循環を根元から断ち切りたい。その逃れがたさは身をもって知っているけれども。


 ぼくらにはそれぞれの生きるべき生活がある。生活の中でそれぞれの課題に取り組んでいる。フリーターだったりひきこもりだったり野宿者だったり主婦だったり企業戦士だったり公務員だったり外国人労働者だったり犯罪被害者だったり……する。時にそれらのポジションは対立し、パイと権利の奪い合いになる。マイノリティどうしでも、批判のし合いにもなる。いや、そうなる割合の方がたぶん多いとも思う。
でも、やはりそれだけじゃなくて、本当はそれらを超え、皆で何らかの《課題》を共有できるはずなのだ。それぞれが違う立場どうしで、(ほぼ)同じ《課題》を共有できるはずなのだ。ポジションの違いに過度にこだわりすぎれば、結局、意見や利益の違いしか見えなくなってしまう(あなたが今のポジションにいるのはあなたの自己責任だから、わたしには関係がない/あなたは結局恵まれているから、わたしの気持ちはわからない/など)。*1


 例えば、ここではそんな共有可能な課題の一つとして、《リスタート=脱落復帰》問題(仮称)を提唱してみたい。*2


 素朴に、この国の中では、一度「あるべき日本人の生き方」から脱落すると、復帰しにくい、と言われる。
 いったん野宿者になると野宿者から脱せられない。いちどフリーターになるとフリーターから脱せられない。ひきこもりになるとひきこもりから……。例えば住所の問題・住居の問題・履歴書の空白の問題、などがここにはあるようだ。「失業者」の意味・位置づけも国ごとに違うし、「野宿者」の意味・位置づけも違う。その国際比較の必要を痛感する。


 しかし、それは何故なんだろう?
 なぜ日本では一度脱落すると再復帰するのが(出来ないのではなく)難しいのだろう?
 そしてそれはほんとうに当たり前のことなのか?
 仕方ないことなのか?
 日本の社会構造・慣習のどんな特性がそういう悪循環を生じさせているのか?


 確かに誰かを排除することは悪い。でも、それに対し、「排除は悪い!」と主張しても、排除する側、あるいは排除の事実を傍観し放置する(ことが出来る)側の人には、その言葉はうまくとどかない。届きにくい。逆に反感を買いやすい。
つまり、「排除は悪い!」という道徳的な排除批判では、それらの人々は《課題》をうまく共有できないのだ。
 でも、逆に、この「一度脱落したらもう復帰できない」という圧力と強迫観念は、実際にすでに一定のポジションを勝ち取った人々の少なくない部分をも、同じく苦しめ続けているのではないか。落ちたら終りだ、復帰できない、今のポジションを何としても死守しなければ、と。その圧力は近年ますます大きく強く、今や、派遣社員の女性が、派遣社員のポストを守るために堕胎することが社会問題となるほどなのだ。
 この構造は、極端にいえば、既得権益の生じやすさ、その打破の難しさへと間違いなくつながっている。脱落してはいけないという日々の不安が、既得権を保守させ、互いの足のひっぱりあいを生んでいる。
 とすれば、この「なぜ日本では一度脱落すると再復帰するのが難しいのか?」「そのことが自分を含め人々の意識を妙に逼塞させていないか?」という問いと《課題》は、社会的に排除を被っている人と被っていない人、マジョリティとマイノリティの間でも――立場の違いはあるが――なんとか共有できるはずだ。
 そうすれば、例えば、フリーターvs若年正職員の対立、がニセの問題、ニセの対立であることになるはずだ。対立することで無益に消耗し、足をひっぱりあっている、本当は互いが互いをよりよくするための《課題》を共有し、これに取り組んだ方が互いにとっても有益なはずなのに、と。
 

 ものすごく抽象度が高いが、とりあえず、おおざっぱな《課題》を三つ提示する。


 (1)日本がいちど社会的に脱落したら復帰できない傾向が強いとしたら、それは何故なのか。(構造分析)
 (2)(1)が事実であるとすれば、それをよりよい方向へ変える、改善するための具体的な制度・提案には、どんなものがあるか。(オルタナティヴ)
 (3)さらに、社会から完全な形で脱落せざるをえない人が、何とか生活を維持できるだけのスペースを社会の中に確保するには、どうすればいいか。この「何とかなる」という空間を確保しておくことは、脱落した人だけではなく、脱落していない人の「脱落復帰不安」をゆるめ、ゆとりをもってより自由な活動を促すことを可能にするのではないか。


 ぼくはとりあえず「フリーター問題」の立場から、《リスタート=脱落復帰》問題(仮称)という《課題》に関して、あれこれ考えてみたい。そのことが、大きな視点からみれば、フリーター層以外の人々が生きる現実の苦しさ・喜びの問題を「共有」することにつながれば、と今は願っている。
 ……以上、ごくおおざっぱな走り書きです。*3

*1:たとえば、ぼくの言葉は「フリーター」を別に代表しているわけではないし、ぼくの人生が「フリーター」問題に代表されるわけでもない。一人の人間は、無数の「属性」を持っている。こんな当たり前のことがしばしば忘れられる。

*2:このエントリーの内容は、特に上山和樹さんid:ueyamakzkとの7日〜9日の議論から多くを負っている。上山さんの発言も間もなくエントリーされるはずなので、注目して下さい。

*3:「脱落復帰」という言い方には、しかし、べつの危うさもあると思う。何故なら、「復帰しなきゃいけない唯一の社会」があるかのようなニュアンスを含むから。例えば、「正職員として終身雇用が望ましい人生」「日本人としての義務」等など。だから、正確にいえば、「復帰」ではなく――共同性Aから別の共同性Bへと――比較的自由に「移動」ができるような社会がのぞましい気がする。「社会的排除」という言葉があり、対して「社会的包摂」という言葉がある。排除されてしまった人々を再び社会に包摂できるようなサポート体制が必要だ。こう言われる。それは確かなのだが、この「包摂」も単純に考えすぎてしまうと危うさがある。包摂がマジョリティへの「同化」になりかねないから。「復帰しなければならない」のではない。復帰がしやすい社会が望ましい、と考える。その上で、社会から完全に脱落してしまった人でも生存を維持できる社会が望ましい、とも考える。だから、正確にいうと、社会的排除にも多元的な形がある。これに対する社会的包摂=脱落復帰にも、多元的な形があるのが望ましいことになる。というか、「復帰」という言葉自体が不要な状態が望ましいのかも知れない。このことは、ていねいに繊細に考えていきたい。