生きるための基礎的な自由

 福島さんの下の言葉に尽きる。

まず応益負担にについて考えないといけない。サービスは多ければ多いほど利用者にありがたいものなのか。「益」とは、サービスとは、私は盲聾だが、身体・知的、いろいろあるが、ニーズは主に3つになる。外を歩くこと、家の中で動く動作の問題、コミュニケーション。この3つが最大公約数のニーズ。外を歩くことはお金がいらない。道路は税金まかなわれ障害者も払っている。障害者が歩こうとするとお金がいるとなる。風呂、トイレ、はどうか。自分の家でも水や、トイレットペーパーや経費がかかる。障害をもっている人は、サービスなんだ、応益なんだとお金が取られるおかしさがある。生まれつき自分でもどうしようもないのに、必要不可欠なものに余分にお金を払わなければいけない不自然さ。コミュニケーションは例えば電話、電話代は誰でも払うが、通訳者が必要。目の前の人と話すのにも金がかかる。サービスだからと言われる。お金がほしいでのではなく、道をあるき、風呂にはいり、人と話す、人生のインフラを必要としている。贅沢なサービスではない。感覚的な違和感を理解頂きたい。これを理解してもらえないと、議論はいつまでたっても平行線になる。福祉サービスは多ければ多いほどいいものではない。24時間必要な人は少ないし、24時間という天井がある。10時間と5時間の介助を使う必要がある人がいて、10時間の人の方が幸福感あるかといえば違う。薬は無駄出してしまうがこれはストックしたりするからで、違う。物質は多くもらうことになるが、介護はたくさんもらったから得、ではない。義務的経費化、大事だし勝ち取って頂きたいが、応益負担の必要、そもそもなぜ必要なのか、青天井は論理的になり得ないし、物やお金をほしいのではなく、生きるための基礎的な自由がほしいといっていること。そこを踏まえて議論して頂きたい。