福祉のボランティア化という「陥穽」

 栗田隆子さんの「ボランティアとは何か〜本当の「闘争」を見出すために〜」(『寿支援者交流会』2005年春号)を読む。
 人間の「善意」の中にひそむ権力意志(特にボランティアやケアなど福祉領域)――に対する栗田さんの身体的な違和感は、いつも繊細かつラディカルだ。


 日本の現状ではボランティアが時に「特等専業主婦」の特権であり、経済・政治的に都合よく使われてしまうだけでなく、時にその人の独善的な「自己実現」の場になってしまっている、という「陥穽」……。そのことにまずは「自覚的」でなきゃいけない。

 制度というのは大上段にやってくるだけのものではない。人間の本音、むき出しの心を救う形でやってくる場合もある。法律という上からのものと、人間のむき出しの心の救い、その両方を制度が持ちうるとき、その制度はもっともうまく機能していくだろう。



 これはボランティア(の一部)に限られない、とぼくは感じた。福祉団体の中核の「職員」にも見て取れる。だから根は深い。
 《福祉のボランティア化》……。例えばNPOという組織自体の危うさ(の一つ)も、ここにある。本音では「ボラでいい、だから自分の好きにやりたい」と感じている――別の誰かの経済的サポートに支えられながら――人が、継続的に「福祉の理念と経営の矛盾」について考えていくことは、切実さがないぶん、すごく難しい。いや、ある意味で最大の《敵》は、ここにある。
 もちろん、長い間、家事領域のみならず介護領域をも女性に無償かつ当然のものとして押し付けてきた性役割分業の社会的な矛盾があったから、状況はさらにねじれるんだけど……。
 マルクスは、協同組合は、他の資本制企業との競争にさらされる時、(1)破綻するか、(2)株式会社に転化する、いずれかの末路をたどる、と述べた。介護系のNPO法人の場合、自然に流れやすいもう一つの「末路」があり、それが単純に法人のボランティア組織化、《福祉のボランティア化》であると思う。破綻ですらないことが厄介だ――生活費的に放逐されていく人々の痛みを尻目に、ボラで続けられる人々の側は、全てを「美しい思い出」として語り、「結果的に福祉のためになったよね」と合理化さえ出来るからだ。
 それは確かに、ボラやNPO(そして「女性的労働者」を)安く便利に買い叩こうとする、社会構造上の問題ではある。
 でも同時に、それは、介護労働者たち自身の心性を草の根的に、根ぶかくむしばむ心理的な――いや、倫理的な?――傾向の問題でもあるんじゃないか。*1

 この「闘争」という言葉、少々古臭く聞こえる。表現も実は私自身かなりしっくりこない。(略)しかしこの私の「しっくりこない」というその感覚はほんとうに正しかったのだろうか。言い換えれば、闘争という言葉がほんとうに古くさくて、しっくり来ないのならばよいが、ほんとうに闘うべきなにかがあるのに、それに対してしっくりこないでいるのであれば、それこそまずいだろうと。

*1:栗田さんがえぐり出す「特等専業主婦」の生き方は、ある面で「特等フリーター」に似ているのかな、と少し思った。誰かに経済条件を安定的に支えられつつ「夢」や「自己実現」を大いに語り、かつ求めるから。それが悪いとは別にぼくは感じないけれど、ただそういう生き方が一定規模の潮流をなす時、それは社会的にやや「悪」の面を含んでしまう。