「格差」についての雑感

 「格差」という言葉が無闇に口にされ、飛び交う。
 一方の人間は「結果的に生じる格差はよくない」と主張する。他方の人間が「自由競争を通した格差はよい」と主張する。
 でも、そこで本当に《格差》の残酷さが問われているのかな?
 素朴に少し首をひねる。少なくとも、近年大量に見かける「格差本」に、そんな痛みがあるのかは、疑わしい。
 格差の残酷さを味わわずに住む程度の余裕ある場所で生きている人間どうしが、格差はいい/悪い、と論じあっているのだとすれば。つまり、意見は見かけの上で対立しているが、「自分たちのある程度安定した足場を今後も守りたい」という点では、両陣営はそれほど変らないのだとすれば。日本人の多くが「リベラル左派(平等主義)」と言われる。でもぼくの実感では、それはかなり疑わしい。平等の思想って、本当はすごく残酷で、自分の側の骨肉を削るようなものだから。


 「勝ち組」が自由と格差を肯定し、相対的な「負け組」が結果の平等を主張する――それって何なんだろう?素朴に考えて、格差を肯定する人は、自分が例えば極貧になったり重度障害者になってもそれを言い続けられるだろうか。平等を主張する人は、自分が今よりずっと裕福になった場合、あるいは自分より貧しい人々が沢山溢れ出し、自分に向かって贈与や分配を懇願し始めた時にも、同じ主張を続けられるか。そうじゃないと、それぞれが自分の足場(既得権益?)を、違った形で守りたいと主張しているだけに見えてしまう。「自分の能力はもっと評価されていいはずだ、もっと取り分を!」と主張することと、「一部の人間が自分より恵まれているのは許せない、もっと取り分を!」と主張することは、同じコインの裏表じゃないのか。いたずらに倫理を述べたいのではない。一見「対立」と見えるものが単なる取り分の奪い合いでしかないとすれば、そこに本当の《対立》のラインを引きたい。そこからだって思う。


 そもそも、本当の「機会の平等」って何だろう?
 何がどうなれば、スタートラインが平等だって言えるんだろう?
 今は切にそれが知りたい。少なくとも、自称自由主義者が自己絶対化的に口にする機会平等は、なんだかよくわからない。「自分の今の地位は正当にかちとったものだ」という自己正当化にしか聞えないから。自由競争や格差が全てよくない、とはぼくは思わない。人間が人間であり続ける限り、競争は必ずあるし、能力の違いもあるし、結果の格差もあり続ける。格差がいい、と言っているのではない。格差の存在を許容するため、いや格差の存在が本当に人々の《自由》を輝かせるには、どんな基礎条件が必要なのか、という話だ。水増しされた条件を享受している人間が、それを享受しえない他者に向かって口にしうるための条件は何だろう。そう考えざるをえない。


 ぼくはこの2年は年収300万を少し上回り、本年度からは240万円を確実に下回り、のみならず1年以内に再び失業状態に陥る可能性が今のところ高い(副業的な雑収入は+αあるけど)。不自然な年齢差別が逆行的に強化されていく日本の雇用現場を見ても、再就職は厳しいと率直に思う。けど、「底辺層」と呼ぶにはまだまだ沢山の贅肉や水増しがあるって感じる。自分のライフコースを省みても、かなり恵まれていると分かる。かといってどう見ても「勝ち組」と呼ぶには貧相だし、今後もその可能性は殆どない。そのことに関して、「全て社会のせいだ」とも「全て自分のせいだ」とも思わない。
 そして、ぼくのような中途半端な人生、タイトロープ的な前進を続ける他にない境涯にある人は、相当多いんじゃないか?(年収300万円以下を経済的な「負け組」と呼ぶのであれば、今後もずっと「負け組」だろう――ただ、ことは経済の次元だけじゃ測れないので、そんな単純な話でもないけど。)


 その人たちの、ぼくらの、10年後の未来のことを最近よく考える。


 「戦後のような裕福な幸福」や「総中流(実はかなり上流)」を望めば、苦しむ。今はその過渡期の矛盾がぼくらを苦しめる。ぼくらがそれでよくても、例えば両親の世代とのギャップに(互いが)苦しむ。ライフスタイルをほんの少し軌道修正し、軟着陸できないか。清貧じゃ全然ない。この10年で、むき出しの現実に向き合う必要があるんじゃないかって話だ。ぼくは結構それはいいことじゃないかって思うんだけど。


 ・・以上、雑感です。