「格差」についての雑感――追記(4月8日)

 以下、追記。ある人とのMLでのやり取りから、一部を修正して抜粋。


 ぼくのフリーター論は、書き進める中で、たたかうべき他者を真性の「リバタリアン」として発見し名づけたし、それに対する対抗原則を「平等」と「分配」と名づけた。そしてそれは「救急車や学校その他、卑近なレベルで人に絶対に頼ろうとしない人間」、例えば自分が餓死寸前の時に他人が自分を見捨てることをも自己責任として受け入れる(それと等しく、餓死する他人を自己責任として見捨てる)人間、そういう凄みある「他者」なんだろう。


 そんな他者に対し、分配/生存権/存在する権利、などの言葉が何の意味を持つというのか。何が響きうるのか。わからない。もちろん、ぼくがそれを十分な強度と説得性を持って今回書きえたとは少しも思えない。今後継続的に問うていく課題だと思う。リバタリアンの凄みが、(リバタリアンとは到底いえない)ぼくの心にも強く響くように、そしてぼくの側の魂を鍛えてくれているように、こちら側の言葉も他者の内臓に響きうるはずだし、そんな次元まで突き抜けなきゃ全くダメなんだろう、きっと。


 最近ぼくは、その人の「生れ」や「環境」ばかりか、「努力」や「能力」さえも相対化するもの、「たまたま」にすぎないもの、と感受させる熱源がこの世にはあるんじゃないか、と思っています(まあそれを「存在」のポテンシャルと呼びたいんだけど)。それは努力や能力を否定することじゃない。むしろそれらを推し進めるための条件になる、と。
 その熱源に根もとから照射され炙られていなければ、シェアの原則も、あるいは状況的な特権者の余裕、にすぎないものとして潰えるかも知れない――つまり、その人の生活に一定の余裕がなくなれば直ちに手放されてしまう。
 たとえば、真性のリバタリアンがその存在を賭けて体現する《単独者》の輝きからは、いいかえれば単独者が単独者であり続ける限りは、平等/シェアという関係性の水準は直ちには出てこない。他者との無限の分離=差異線が累積し続けるだけで。
皮相な被害―加害の転移の水準(弱い人がより弱い人を叩く)ばかりか、真性のリバタリアンによるフェアな自由競争が生じさせる《暴力》の水準、この水準への対抗原理を自分なりに探っていきたいな、とは感じている。