訪問介護は定額払い制に 06年度の改定で厚労省

 厚生労働省は2日、ホームヘルパーらが要介護高齢者の自宅でケアをする訪問介護の事業者報酬について、サービス内容や組み合わせによって額が決まる定額払い制度の導入に乗り出す方針を固めた。現行の時間や回数に応じて支払われる報酬体系は廃止する。これに伴い、利用者が事業者に支払うサービス料金も原則、定額制となる。

 日常動作など個人差がある要介護高齢者のケアを一律に時間で計って評価することは不適切だと判断、全面的に見直す方向となった。現行は身体介護や家事代行など生活援助の利用時間、回数が多いほど報酬も増える出来高払い制度。これが給付費が急増する原因といわれ、定額制導入で給付費増に歯止めをかける狙いもある。(共同通信社05/03 02:08 )



 定額制になれば、ヘルパー事業所も経営が少しは見通しやすくなる可能性もある(利用者さん一人ごとに月払いでお金をもらえる現在の通所更生施設みたいに)けど、給付額の歯止めが目的なわけで、結果的にものすごい安い単価になるのは問答無用だろう。「日常動作など個人差がある要介護高齢者のケアを一律に時間で計って評価することは不適切だと判断」という部分は、特に知的障害者などに関してもしばしば言われることで、例えば食事に2時間かかる人もいれば、トイレに3時間かかる人もいて、タイムテーブル形式では行かない。その部分が組み込まれるのはしごくまっとうな話だと言えば言えるのかも知れないが、事業所の収入面では(水で薄めたように)厳しくなるのは必須。


 ・・と、お金お金の話ばかりで自分でもいい加減うんざりして来た。
 いっそのこと、訪問介護系の障害者支援は「仕事」ではない、という社会的合意があった方がよい気がしてきた。公の財政的にも、当事者の負担的にも、その方がよいのかも知れない。結局騒いでいるのが事業者ばかりだとすれば、あれこれやりくりし、給与を下げたり稼働時間をいびつに増やしたりするくらいなら(いかにも「自分たちは苦労してますよ!」的なポーズを取る位なら)、その手の「経営努力」はある程度放棄し、ボラ団体的要素が強い形でやったほうが「障害者福祉」のためになるのかも知れない。皮肉ではなく、最近少し本気でそう思う。行政も勿論それを望んでいる。自発的に善意で頑張ってくれるNPOやボラ団体が、星座のように連合して草の根から福祉を支えてくれれば、それが一番なわけだし、グランドデザインなどを見てもそういう方向に舵を切った。日本の福祉は「家族含み」と言われるが、「NPO含み・ボラ含み」の面が色濃くなりそう(もともとそうだったんだろうけど)。
 「障害者産業」(支援者の給与でお金が消え、肝心の当事者に福祉予算が行かない)の問題もあるけれど、それだけじゃなく、ある当事者家族の人に言われてなるほどと思ったんだけど、例えば「仕事」で介護をやっている人より、「本当にこの人とかかわっているのが楽しい」と思ってくれている人の方が、いざという時に本当の頼りになる、と。大地震が来た時に災害弱者のわが子を助けてくれるのは、間違いなく後者だろう、と。
 自分の勤めるNPO法人も職員体制の見直しは不可避=不可欠だが、賃金的な淘汰の波のあと残るのは、奇妙に片寄った(でもありふれた)年代・性別の人々となりそう。最初はそれが嫌で、年代・性別・生活条件にかかわらずこの仕事に多様な人々が携われる状態が健全だと信じたが、訪問介護系の障害者支援ではその方がたんじゅんに「不自然」なのかもしれない。障害者福祉労働の現状や歴史を知らない無知なフリーライダーなのかも知れない。そもそも、絶えず自分の足元(生活条件)を見ながら関わらざるをえない人間は、動きが鈍くて使えないな、ならばいっそ(お金の心配なんかしないで)健全な理想=善意に燃えた人々の方が使えるよな、とは自分の迷走ぶりを見ていて思う。
 いや、こういう言い方がすでに駄目駄目で、生活条件の浮沈に関わりなく、恒常的な努力と自己陶冶を続けられる素朴な「確信」がない奴は、職業的に淘汰されて仕方ない、今も昔もそうだった、いや過去の方がもっと状況は厳しかったはずだ、と痛感するのだった。そして過酷な条件にいる人間の方が、そのポテンシャルを長い目で見ればひろげられるのかもしれない。