立岩真也「よい死・1」(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2005022.htm
立岩真也「よい死・2」(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2005021.htm
大谷いづみ「太田典礼小論――安楽死思想の彼岸と此岸」(http://www.arsvi.com/2005/0503oi.htm
小泉義之「飢える自由? 窒息する自由?」(http://www.arsvi.com/2000/0504ky.htm


 尊厳死法の動きは、人工呼吸器や人工経管栄養で生きている人間もターゲットとしている(同院生・川口有美子のHP参照)。そして、生きるコースを開くはずの機器類と人手と資金を与えず、尊厳を欠いた状態と決めつけ、「あなたには窒息する自由や飢える自由がある」と告げようとしている。衣食足りた側の者が、礼節を欠くだけでなく、罪を犯そうとしているのである。
 他にも論点は沢山ある。私も迷うところはある。だから幾らでも議論すればよい。しかし、元気な者が、法律の威を借りて、ある種の人間に死ぬ権利を与えてやるなどということは、どう考えても許されることではない。

 安楽死尊厳死と障害者の問題が「戦前のナチス」云々に囲い込んで片付く過去の問題ではないこと、戦後から現在へ連続することは、例えば立岩真也『私的所有論』等で知っていたし、同『ALS 不動の身体と息する機械』*1を読んでALS患者が人工呼吸器の拒絶(消極的安楽死?)/受容の選択を始め、生の過程で何度も蛇行しつつ強いられる問題だと考えさせられてはいたが、「尊厳死法の動きは、人工呼吸器や人工経管栄養で生きている人間もターゲットとしている」という一文を読み、急激に「身近」に感じられてしまった。*2

*1:殆どがALS者の文章の引用で成り立ったカフカベンヤミン的なこの本は、本当にすさまじい一冊だ。眼球さえ最後に動かなくなる「トータル・ロックトイン・ステート」(TLS)の状態を目がけ、「生きる方がいい」と一番うかつには言えない(とさえ、実はわりきって言えない)場で、「わからない」「わからない」をレトリックでは絶対に無く繰り返しつつ、なお「生きる方がいい」と言い切るための条件と信の強度を模索する試み。立岩さんの著述としては圧倒的に平易だが、無数の寸断/沈黙/不透明さを含む。そしてもちろん、テクストの全体が、一人ひとりのALS者の生の重み、存在、語り得なさの前に静かに絶句し、佇んでいる。

*2:【後記】その後、ある人から、重症児・者の親の中でも、最近、児童期はともかく、本人がある程度の年齢に至ったら、気管切開せず呼吸器を使わず、それを本人の「自然死」と考える、それを大切にしようね、という風潮があると聞いた。悩ましい話だが、ALSの人が強いられる選択と同系であり、かつ重症児・者の場合、その選択を行うのが基本的に親だという二重の悩ましさがある様子だ。