障害者自立支援法が廃案に

 昨日衆議院が解散し、障害者自立支援法も廃案に。
 自分に細かな政治力学への嗅覚はないので、例えばid:lessorさんの日記に引用されたメールを参照。
 いずれにせよ、廃案だから何がどうなるかは、まるでわからない。近視的には、厚生労働省が2ヵ月分の予算を確保していない、どうなる、という財源の問題はある。なし崩しに地方の自治体へ一般財源化されるなら、自立支援法の方が相対的にまし、という育成会的な「苦渋の決断」が正しかったのでは、という気も確かにしてくる。もともと自分は、法案の成立/廃案の是非について態度決定さえ出来ていないが(法案を底流する思想、その手続きは強く拒絶するが、リアリズム的にはどちらがいいかわからなかったし今もわからない)、いよいよわからなくなった。


 政治の水準が市民の生活を「代表」する機能を全く持たず、政党間の野卑な党派争いであり、しかも障害者をめぐる政治とは基本的には関係のない郵政の水準でことが決定されていく。たぶん「障害」という分野は、一定の票田と結びつく勢力たりえないのだろう、とも感じた。代表制というより、ブラックボックスというか、意味不明な回路のよう。
といって、その「回路」を草の根的に望んでいるのは、いち市民という他ないが。システムがブラックボックス的に機能しているだけではなく、「政治はわからない」というイメージの水準で黒く塗りこめてしまっている。それが甘美な無力感を自己免責的にひろげる。


 政治過程・財源論の大切さは当然だけど、その底で、人々の社会的な基本感覚の大切さ、を思う。
 結局、それしかないのではないか。正確には、政治・財源の水準は、一人ひとりの基本的な「感覚」に土台から裏付けられないなら、中長期的には必ず形骸化の道を辿るのではないか。なんてすごい当り前のことを今さら書いているけど、当たり前なことがらをしつこく確認するのも時には大切な気がするのだった。


 抽象的に書く。
 例えば新自由主義型の「小さな政府」論に基礎づけられた郵政民営化の流れは、旧来の既得権を打ち砕く可能性があるかもしれないが、民営化促進待望論が結果的に別の既得権(独占)を生み出す可能性があるし、事実それは繰り返されてきた。「民営化して、NTTやJRのような保護されたマンモス企業になるのではないか、という疑念も晴れない」(星野智幸)。これは最悪だが自然な流れで、民営化と市場原理を推し進めれば結局は「上」の人々が安定し、「下」の人々が互いに足を引っ張りあい泥沼となる。すると旧来の血縁地縁相続型の既得権と同時に、リバタリアンな格差化の進行にも(両刃的に)抗する道が選ばれる。機会均等+自由競争は大切だがそのままでは「完全平等」には足りない。
 …云々は、しょせんは抽象的な議論で、それを内臓で納得し、余裕ある立場ではなく、他者を慮る余裕のない場でなお言い貫くには、10年20年単位の生活の過程でじょじょに「思想」として血肉化してゆくしかなく、自分なんかもまだまだ甘っちょろく、生活の浮沈や流動で初志がぶれてしまう。わが身はかわいい。まだまだ現実から験されねば。云々を、しかも草の根的(という言い方が大衆論っぽくていやなら、根茎=リゾーム的)な議論を通して――沈黙や言い淀みや吃音を含めた議論にならない議論を通して――押し上げていくこと。・・。